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2019年9月18日(水)

連載「植民地支配 歴史と実態」を読んで

軍国少女だった私もあまりにひどいと思った 戦前朝鮮での体験

元台東区議 五十川チトセさん

 「いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態」を読んで、東京都台東区在住の五十川チトセさん(88)から「真実を広めなければならないと改めて痛感した」と感想が寄せられました。次に紹介します。五十川さんは日本共産党の元台東区議会議員。


 嫌韓・反韓一辺倒の報道のなかで、この連載を載せていただいて、ありがとうございました。

 私は2歳で朝鮮、今の韓国に渡り14歳で敗戦により引き揚げてきたので故郷と言えるのは韓国以外にはありません。大本営発表に何の疑問も持たない軍国少女だった私にもあまりにもひどいと思われたことが幾つかありました。

名を奪われた人

 太平洋戦争が始まった頃の朝鮮人小学校の廊下に1メートル置きくらいにステッカーが貼りめぐらされていました。「国語ヲ使イマセウ 朝鮮語ヲ使フ人ハ国賊デス」と書かれていたのです。その頃には1週間に1時間だけあった朝鮮語の時間もなくなって、朝鮮人小学校でも授業は日本語だけでした。

 創氏改名で強制的に日本式の姓名に変えさせられていました。教員だった父は、生徒が自分の名前の一字をとって改名したと喜んでいましたが、私は名前を奪われた人々の気持ちを考えていました。

 小学校卒業後に入った女子師範学校は、4年卒業で教員資格がとれる尋常科と高等女学校卒業後1年で資格がとれる講習科があり、皇国臣民化教育を担う教員を即席で育てる学校でした。「内鮮一体」を掲げて内地人と朝鮮人を半々に採ると言いながら、実際には内地人を少し余計に採っていました。

 授業料も寮費もいらず、月5円の官費が支給されていましたから、経済的に苦しい家庭の子どもが殺到し、朝鮮人の競争率は高く、私の1年上の学年では成績1番から10番までが朝鮮人だと言われていました。

 引き揚げてきて乗った山陰本線沿線の山々に真っ赤な柿の実がたわわに実った柿の木がたくさんあるのを見て「ああ内地に帰ったんだ」と実感しました。朝鮮では塀の中以外で柿の実が赤くなったのを見たことがなかったのです。朝鮮の野山にも柿の木はたくさんありました。でも花のうちに食べられてしまうので野山で柿を見ることはなかったのです。

 朝鮮には梅雨が無く、干ばつが多いので食料が足りず花でも何でも食べられるものは食べなければ生きていけなかったのです。松葉も粉にして食べ、松の木の堅い皮をはがして柔らかい皮も食べられる、戦争で食料が無くなったら君たちも食べるんだと先生に教わりました。南朝鮮は農業地帯で広い田んぼや畑が多かったので、農作物は内地や戦地に召し上げられたのではないかと思っていました。

言葉さえも否定

 毎年3月に東京大空襲資料展を浅草公会堂で開いています。何年か前に来場した70代くらいの男性が「韓国というのはひどい国だ」と声をかけてきたので、「日本が植民地にしてひどいことをしたのですから」と言ったら、「その植民地というのが間違っているんだよ。ちゃんと併合条約で対等に合併したのだから植民地なんて言うのが間違いなんだ」と言われました。「植民地」という言葉さえ否定されたのは初めてだと思っていたら、最近では安倍首相一派の考えなのだと知らされました。

 嫌韓・反韓の攻撃に負けないで真実を広めなければならないと改めて痛感しています。


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