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2019年9月11日(水)

いま振りかえる 植民地支配 歴史と実態(2)

抑圧36年、日本は朝鮮で何をしたか

 1910年8月22日、漢城府(現ソウル)に戒厳令が敷かれ軍と警察が巡回する中、日本と大韓帝国(韓国)は「韓国併合に関する条約」(以下、併合条約)に調印しました。以来36年、朝鮮半島は日本の植民地下に置かれます。その時、日本は朝鮮で何をしたのでしょうか。(栗原千鶴)


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(写真)雨の中、日本大使館前で日本政府に謝罪と賠償を求める李春植さん(手前右)=8月15日、ソウル(栗原千鶴撮影)

総督府設置し専制政治

一片の“権利”も付与せず

 併合条約に調印直後、日本は朝鮮にあった結社を解散させ、政治集会を禁止します。29日に併合条約が公布されると呼称を「韓国」から「朝鮮」に変更。司法・行政・立法の三権を握る「朝鮮総督府」を新設し、初代総督には現職の陸軍大臣だった寺内正毅が就任しました。

 日本は併合条約の前文で、併合は両国の幸福や東洋平和のためだと合理化しました。しかしその約3カ月前には「併合後の韓国に対する施政方針」を閣議決定し、▽朝鮮には当分、憲法を施行せず大権(天皇)により統治する▽総督は天皇に直属し、朝鮮における一切の政務を統括する権限を有する―としていました。

 当時の大日本帝国憲法は徴兵制など天皇絶対の専制政治を国民に強いるものでしたが、条件を満たした一部の男子には選挙権を与えていました。日本は朝鮮に対し、憲法のこのわずかな「権利」すら与えず、総督が天皇の代理人として民衆を弾圧できる専制政治を実践しました。

憲兵警察制度

暴力支配と土地取り上げ

 警察と憲兵が一体となった憲兵警察制度は、朝鮮の人々を苦しめました。全国すみずみに憲兵と巡査を配置し、暴力的な支配を行い、「武断政治」と呼ばれました。

 10年から18年まで行われた土地調査事業は、多くの農民が書類の提出ができず、土地の所有権を失いました。取り上げた土地の大部分は総督府のものとなり、そのほとんどが日本人に安く払い下げられました。農民の80%が小作人になります。中国東北部や日本へ移住し、低賃金労働者となり苦しい生活を強いられた人もいました。

 不満が渦巻く中、19年3月1日に京城(現ソウル)で始まった朝鮮の独立・自主を求めた「三・一独立運動」は、約3カ月にわたり全国に広がりました。総督府は軍隊を動員し無差別に発砲したり、逮捕後も拷問するなどして徹底的に弾圧しました。

「文化政治」の名で

「親日派」養成し運動分断

 独立運動によって、日本は武力一辺倒の政策から転換を迫られることになります。

 19年8月、新しい朝鮮総督に海軍大将の斎藤実が就任します。斎藤は「文化政治」の実施を宣言します。一方で憲兵や警官の駐在所の数を3倍に増やすなど、植民地支配体制を強化。治安維持法を朝鮮にも適用し、独立勢力の弾圧を強めていきます。

 また一定の条件を満たす団体は結社や集会が認められ、日本の植民地支配に協力する親日勢力を養成します。文化政治の本質は、「親日派」を利用し、独立運動を分裂させることにありました。

皇民化政策

言葉や名前、誇りも奪い

 日本軍は朝鮮半島を足場に「満州事変」(31年)以来の中国侵略をすすめ、「15年戦争」に突入します。戦況が長引くと、日本は38年に国家総動員法を制定。民衆を戦争に駆り出しました。

 そのために日本は朝鮮で、朝鮮民族の誇りや文化、伝統を破壊し、天皇のためにすすんで命を捨てる人間をつくりだす「皇国臣民化政策」を進めました。

「皇国臣民ノ誓詞」 

 私共は大日本帝国の臣民であります。私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民になります―。37年に制定された「皇国臣民ノ誓詞」の一部です。朝鮮では学校の朝礼はもちろん、会社、工場などでも毎日、唱和させられました。

神社参拝の強要 

 日本は、朝鮮の全ての村に神社をつくり、参拝を強要しました。神社には天照大神や明治天皇をまつり、天皇崇拝を押し付けます。これにはキリスト教徒の抵抗もあり、神社は戦後すぐ、ほとんどが取り壊されました。

朝鮮語の禁止 

 38年に朝鮮教育令の改定で、朝鮮語の科目が消えます。学校で一切の朝鮮語が禁止され、日本語だけで教育を受けさせました。朝鮮語による新聞や雑誌が発売禁止となり、言論がますます統制されていきます。

創氏改名

 朝鮮の人々は一族の系譜を記した「族譜」を大事にしてきた民族です。40年に日本が実施した創氏改名は、名前を日本式に変えさせようというものでした。拒否する人にはさまざまな圧力が加えられました。

工場・戦場へ強制動員

徴兵・徴用工・「慰安婦」…

 30年代後半に入ると日本では成人男性の徴兵により、労働力不足が顕著となりました。日本は国民徴用令を発令。朝鮮の人々も日本の炭鉱や鉄工所、軍需工場などへ、強制的に動員されます。

 「募集に応じ、2年働けば戻って工場長になれるといわれた」「学校の呼びかけに、級長だったので率先して応えた。日本では学校に行けるといわれた」―。募集、官斡旋(あっせん)、徴用と時期によって動員された形態は異なりますが、植民地だった当時、最も弱い立場だった人たちが犠牲になったことは明らかです。

 日本は、戦況が悪化した44年には、朝鮮に徴兵制を適用。23万人が戦場に送りこまれました。

徴用工被害 

 李春植(イ・チュンシク)さん(95)は41~43年、旧日本製鉄の鉄工所で強制労働させられました。危険な仕事に従事させられ、熱い鉄材の上に倒れて3カ月のけがを負います。賃金も支払われませんでした。韓国の最高裁は2018年10月、新日鉄住金(当時)に対し慰謝料の支払いを命じました。

「慰安婦」被害

 日本軍は、戦場に「慰安所」をつくり、女性を性奴隷としました。韓国に住む被害者の李玉善(イ・オクソン)さん(93)は、16歳のころ朝鮮半島東南部・蔚山で、日本人と朝鮮人の2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所につれていかれました。性奴隷とされ、一日に何人もの軍人を相手にしなければなりませんでした。「あそこは慰安所ではない。死刑場だ」と語ります。

朝鮮人元BC級戦犯 

 日本軍は、連合国側の捕虜を監視させるために朝鮮人を動員しました。李鶴来(イ・ハンネ)さん(94)は17歳の時、人数を割り当てられた村役場のすすめで試験を受けます。実質的な強制徴用でした。泰緬(たいめん)鉄道建設に使役された捕虜の監視にあたります。2カ月の軍事訓練では、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は知らされませんでした。李さんら朝鮮の捕虜監視員は戦後、国際条約違反で148人がBC級戦犯とされ、そのうち23人が死刑となりました。

 被害者らの苦しみは1945年8月15日に解放を迎えたあとも続きました。存命の被害者はほとんどが90歳を超えました。いまも名誉回復、真の謝罪、補償を求めてたたかい続けています。


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