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2019年8月31日(土)

証言 戦争

命がけの引き揚げ 「満州」に残され、恐怖と飢餓の日々

福岡市南区 小泉雅江さん(79)

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 第2次世界大戦で日本が敗戦してから65年が過ぎた2010年の夏。小泉雅江さん(79)=福岡市南区=は、亡くなった母が暮らした鹿児島の実家に帰省していました。納戸の整理をしていた妹が見つけてきたのは、ほこりと汗で汚れた布袋。母が「満州」(中国東北部)からの引き揚げ時に背負ったリュックサックです。衣類や写真、乾パン、親しかった中国人の連絡先を書いたノートが引き揚げ時には入っていました。

泣けず、笑えず

 終戦後、朝鮮半島や中国、台湾などの旧日本軍が支配していた地域から命がけで日本本土に引き揚げた人たちがいます。「満州」の安東(現在の丹東)で生まれ育った雅江さんは、その一人です。恐怖や飢餓に耐えた体験を振り返ります。

 「治安は悪くなるばかりで、大声で泣いたり笑ったりすることもできなかった。ある日、大きな体格のソ連兵が3人、土足で家の中に上がってきた。1人は母に銃口を向け、周囲を見渡して出ていった」

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(写真)母が引き揚げ時に背負ったリュックサック(本人提供)

 雅江さんが母やきょうだいと7歳になるまで過ごした安東は、鴨緑江(おうりょっこう)で隔たれた朝鮮との国境の街です。父は「満州国」(当時)の商工省に勤めていました。

 戦争という言葉も知らないまま平穏な日々を過ごしていましたが、終戦直前の8月9日、ソ連軍が「満州」に侵攻。「街では暴動が起き、公園には死体が転がっていた。日本兵が後ろ手に縛られて引き回される様子も見た。家に火が放たれ、2階から布団にくるまれて道路に投げ出されたこともあった」といいます。

 安東の引き揚げ者の収容所に入ったのは1946年9月29日。雅江さんの7歳の誕生日でした。

 父母と子ども4人で引き揚げ団の列に加わり、日本への船が出る葫蘆(ころ)島を目指して命がけの移動が始まりました。「原野のようなところで列車が止まり、川に沿って歩いたり、浅瀬を歩いたり、疲労と栄養不足で話す元気もなかった」

 その道中、父は急病で帰らぬ人となりました。父は枕もとで「まあちゃんはお姉ちゃんだから、母さんを助けて、きょうだい仲良く元気で日本へ」と言い残しました。

 「満州」の各地から引き揚げる人々で大きくなる隊列。昼も夜も歩き、何日かたって葫蘆島の港にたどり着きました。

 乗り込んだのは、引き揚げ船「興安丸」の船底でした。

 「疲れ果て、栄養失調で体力のない人や幼い子どもが亡くなり、何人も海へ葬られた。その都度、ドラの音が低く響いた。母は横になって寝ることもできず、座ったまま塊のようになっていた」

 玄界灘の荒波の向こうに九州が見え、博多港に上陸したとき「日本に帰り着いた喜びは感じなかった」と振り返ります。母もきょうだいも一日一日、生きることで精いっぱいでした。

 「夫を亡くした母は悲しむ間もなく、私たちの手を引いた。涙をこらえ『日本に無事に帰れるように』と祈りながら歩いたのだろう。ずっしりと重いリュックサックに母の命があるようだった」

弱者を邪魔者に

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 戦後の混乱期、「満州」から博多港に上陸した日本人は約58万人にのぼります。

 雅江さんは、憲法改悪を狙う安倍政権に警鐘を鳴らします。

 「関東軍(満州に駐屯していた日本軍の部隊)は南に退却、民間人だけが残された。私は学校にさえ通えなかった。戦争になれば弱者は邪魔者にされる。あんな時代を二度と繰り返してはいけない」

 (丹田智之)


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