2018年5月28日(月)
2018とくほう・特報
カナダ在住 核兵器禁止条約力に世界駆ける サーロー節子さん語る
被爆者は語り、行動する使命が
移り住んだカナダを拠点に50年以上「人類と核兵器は共存できない」と、廃絶を発信し続ける被爆者・サーロー節子さん。122カ国の賛成で核兵器禁止条約ができたもとで、少数派となった核保有国とその同盟国の国民にむけて世界をかけめぐります。5月中旬、新緑あふれるトロントを訪ね、話を聞きました。86歳になったいま「体力を保持し私にしかできないこと、非人道的な核の完全廃絶を訴えるのが広島であの日を体験し奇跡的に生き残った被爆者の使命です」と語ります。(阿部活士)
おいの姿を
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トロント市のノースヨークにある高層マンション。1人暮らしになった節子さんの自宅です。奥の2部屋は「仕事部屋」と呼び、四方の壁は核と平和に関する日本語と洋書の本棚が並びます。新聞記事や各種資料を入れた箱が何重にも積まれていました。
「広島のことを思い出すとき、私の頭に真っ先に浮かぶのは4歳だったおいの英治の姿です」。節子さんは、ICANのノーベル平和賞授賞式講演でこう語りました。
資料のなかから英治君を抱く姉の写真を探しながら、あの日の前日8月5日のことから語りだしました。
―英治の父親は軍隊に取られていて、姉にとって宝は英治しかいなかった。佐伯郡に疎開していたけど、母に食べさせたいと、好物のおはぎをつくってもってきたの。配給の砂糖をため、お米はお百姓さんからもらったもの。縁側に座って、おいしいと舌鼓して、ね。でも、父は不機嫌でした。姉に、“安全な田舎にいたのに、危険な街になぜきたのか、街を出なさい”と。姉は、明日朝早く医者にいって帰ると話していた。その夜はいくら暑くても、毛布を戸にかけて外に灯(あか)りがもれないようにしていて、眠れない夜でした。翌朝、姉と英治は医者に行くため柳橋を歩いていた―。
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授賞講演では、8月6日のことをこうのべました。
「彼の小さな体はみわけがつかないほど焼けただれた肉の塊となっていました。かすかな声で水をちょうだいと訴え続け、苦しみながら息を引き取りました」
「英治の姿は、今この瞬間にも核兵器で脅かされている世界中の罪のないすべての子どもたちに重なってよみがえってきます…核兵器は必要悪ではありません。究極の悪なのです」
ビキニ事件
1954年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で強行した水爆実験に日本のマグロ船・第五福竜丸が被災した「ビキニ事件」のニュースは世界をかけめぐりました。折しも節子さんが22歳で、核実験した本国・アメリカの大学に留学する時期でした。ヒロシマの若い女性が入国すると聞いた記者に囲まれてビキニ事件について聞かれ、答えました。
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「広島、長崎だけでなく、ビキニまで、同じように苦しめている。アメリカは次の核戦争を準備するためにテスト(核実験)しているのか。テストをやめなさい」
この発言は、直後にヘイトのいやがらせをうけ、1週間ほど大学のクラスに出席するのも怖くなりました。しかし、「学友は学徒動員で建物疎開(建物を壊す作業)に出て、原爆に焼き殺された。発言は、生き残ったものの誓いであり、祈りでした。被爆者の使命を強く感じました」
夫の支えで
「被爆の悲惨さ、それだけを語るのでは不十分だと思う。二度と繰り返さないために人は何をすればいいのか。被爆者は語り、行動する使命があります」
節子さんは繰り返し強調します。
長年支えたのが、夫のジム氏です。リビングには、ジム氏の写真と位(い)牌(はい)があります。「彼の存在がそこにあるということです。写真に向かって“ただいま”“がんばってきたよ”というの。サポートはいまも続いていると思います」
そう言いながら、あるエピソードを話します。
第2回国連軍縮特別総会(SSDII)で反核平和運動が盛り上がった1982年でした。カナダの首都・オタワにある国立美術館で広島・長崎の写真展が開かれました。
節子さんは開会あいさつをして、その足でトロント空港から飛行機で米国に入り、シカゴ経由でアイオワ州の集会でスピーチする予定でした。美術館に爆弾が仕掛けられて全員退避したとの情報があり、空港でパスポートを取り上げられて、足止めを食らいました。
「私は涙流しながらジムに電話したわ。“こんな仕打ちを受けるならスピーチもやめる”と訴えたの」
彼はやさしく、節子さんにいいました。
「でもね、考えてごらん。牧師たちが600人も待っているんだよ。セツコの話をきいた牧師が何千人にも広げてくれる。牧師の話を聞いた人が何万人と広げてくれる。期待しているよ」
「OK、ジム。行くわ」と答えたと節子さん。「夫は、私がくじけた時、弱くなった時、静かに支えてくれました。夫は歴史家だから史実を踏まえて、新しいことを説明してくれる。考えさせてくれる。最高でした」
現在、カナダにはエンジニアの次男、アンドルーさんがいます。
節子さんってどんな存在? 「簡単にはいえないけど、尊敬しています」とアンドルーさん。「彼女は多くの人にとって核兵器反対の活動をする平和活動家。けれど、私の大切な母親です。すごく忙しく、やることがいっぱいあるので、大事にしたいし、助けたい」
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風穴開ける
授賞講演で、核兵器禁止条約の採択を「核兵器の終わりの始まりにしよう」と訴えた節子さん。禁止条約に反対する核保有国の政府、「『核の傘』のもとで共犯者になっている国々の政府」に、「私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告に心を留めなさい」と呼びかけました。
いまだに九つの国が核兵器を持ち、1万4000発以上の核兵器が貯蔵・配備(表)されて、人類への脅威となっています。
節子さんは6月初旬にフランスに行きます。「核保有国のフランスで“風穴”をあけるお役にたてれば。人道的な問題としてプッシュします。それが私の役割です」と抱負を語ります。
一方、日本に来る予定は、秋までありません。安倍政権は、唯一の戦争被爆国なのに、核保有国と非保有国の“橋渡し役”になるとの口実で、核保有国の立場に立って禁止条約に背をむけています。
節子さんは「戦争する国」をねらう安倍政権に強い危機感を持っていました。息子のアンドルーさんに、「バッド(悪い)アベ」に対比して、記者のことを「グッド(良い)アベ」だと紹介してくれました。
核兵器禁止条約の国連会議に日本の政党で唯一参加した日本共産党の志位和夫委員長と面談したことも話題にしました。“共産党と話を”とびっくりする周りの人に節子さんは「赤でも、白でも、黒でも、核は同じように焼きつくすのよ、と語った」といいます。肌の色の違いや思想・信条の違いに関係なく、人類と共存できない核に立ち向かう、たとえ話として聞きました。