2018年4月2日(月)
シリーズ 憲法の基礎
日本再軍備 安保締結と同時進行
1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議で対日平和条約が調印された5時間後、同じサンフランシスコの米陸軍第6軍司令部で日米安保条約(旧安保)がひそかに調印されました。国民は調印後、初めて安保条約の内容を知りました。
旧安保条約の第1条は「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与」すると明記していました。「講和」によって占領軍は撤退するはずでした。その「占領軍」が一瞬にして「在日米軍」に変貌し、基地とともに居座り続けるという“マジック”が強行されました。しかも、講和条約第3条で、沖縄と小笠原を米国の全面占領下に置きました。沖縄の軍事的利用価値を重視したのです。こうして日本全土を「反共の防波堤」として丸ごと占領・半占領状態に置いたのです。
日米安保条約締結交渉の核心は「日本の再軍備」にありました。
51年1月末から2月にかけて来日した米国の対日講和問題責任者ダレスと日本政府の交渉経過について、元防衛大学校校長の西原正氏ら編『日米同盟Q&A100』は次のように描いています。
「(ダレスは)日本の独立回復後における米軍の駐留継続を示唆すると同時に、日本再軍備案として32万5000人を提示した」「日本側が再軍備計画を提示しない限り、交渉が進展しないことは明らかであった。そこで外務省事務当局は、警察予備隊と海上保安庁とは別個に五万人からなる保安隊を新設するとの漸増計画案を提出した。米国側がひとまずこれを了承した」
これを受けて52年に保安隊が創設されました。53年には吉田茂首相の特使として米国に派遣された自由党の池田勇人政調会長がロバートソン米国務次官補と会談。米側が35万の地上兵力を要求するなどして激しい議論となり、54年に保安隊が自衛隊に発展しました。
日本の再軍備を求める米側の意思は最初から強烈でした。ダレスは51年3月31日の演説で、「今後日本は太平洋の安全保障に対し、相当の貢献をしなければならない…安全保障に対し貢献をする能力を有する国は『無賃乗車』をしてはならない」と述べました。安保締結前から安保“ただ乗り論”批判が始まっていました。(随時掲載)