2002年11月12日(火)「しんぶん赤旗」
アンマンからバグダッドへは、砂漠のなかの千キロの道。イラク国境までは悪路でしたが、イラク領に入ると片道三車線の高速道路が続くのです。オイルマネーなどによるインフラ整備がすすんでいたことを印象づけられました。
|
イラク国境に入ると稀有(けう)な集中豪雨と稲妻、オレンジ色の砂塵(さじん)の竜巻に出あい、車の前方の視界がきかなくなり、イラクでわれわれを待ち受ける運命を暗示しているのかという思いが頭をよぎりました。
イラクでは、ハマディ国民議会(国会)議長と会談しました。同議長は、国の最高意思決定機関である八人で構成される革命指導評議会メンバーで、ナンバー4といわれる人です。
私は、「イラクをめぐって世界が戦争か平和かという岐路に立っているときに、イラク政府に直接ただしたい問題がある」と前置きして、イラク問題の平和解決にとって緊急課題となっている大量破壊兵器の全廃という国連安保理決議の無条件受け入れについて、包括的に尋ねました。議長は、五十分にわたる会談のなかで、問題になっている八つの大統領宮殿関連施設を含めて無条件、無限定の査察を受け入れること、査察についても、国連と誠実で全面的な協力をすすめることを明言しました。米国のハーバード大学で訓練された英語を話す議長の言葉を、たいへん重く受け止めました。
私は「事実を隠したり、国際世論を欺く行為が、国際社会でイラクが不信感を持たれる理由になってきた」が、これをあらためるべきだ、と率直に提起しました。同席していた森原氏は、この言葉を固唾(かたず)をのんで聞きながら、「温和な議長の顔もこわばり、会談場の雰囲気が緊張した」と振り返っています。私はさらに、イラク側からアメリカが戦争をすすめる口実を絶対に与えてはならないと強調すると、議長は「これらすべてに同意する」と答えました。
これに先立って、ファイサル外務省第一政務局長と会談しました。外務大臣に次ぐ地位にある人です。青年時代にフランスで学究生活を送り、パリ駐在大使から戻ったばかりの局長は、パリ・アクセントのフランス語を話し始めました。すべて英語で通した訪問の唯一例外のときで、私がフランス語で話し、同行者の通訳も兼ねる異色の会談ともなりました。ここでは、国連決議の履行の現状、査察の無条件受け入れの意味、この四年間なぜ査察を拒否してきたのか、大統領宮殿の査察、イラクの態度は変化したのか、その理由など詳細に厳格にただしました。
局長はこれらに、「イラク問題を国連の枠組みのなかで解決したい」と強調し、その立場で回答しました。そして、「国連に全面的に協力して査察問題は一刻も早く終わりにしたいのだ」という政府の心情を繰り返しました。また、「アメリカがイラクに不可能を押しつけようとしている」とものべました。それに対して、私は、「だから、国際世論がうんと重要なのだ。そうしたアメリカにたいしては、批判がさらに集中して、みずから国際的に孤立するだろう」とのべ、「なおのこと、イラクがまずい対応をしてはならないのだ」と強調したのです。一時間を超える会談は、真剣なやりとりで終わりました。
バグダッドからカイロ入りは、経由したアンマンに午前四時到着、仮眠しただけで、エジプトでの三つの会談に臨みました。イラク政府への私たちの働きかけに例外なく注目が集まり、内容を紹介すると共感の声が寄せられました。エジプトのアブゼイド人民議会アラブ問題委員長は、私の訪問の三週間前にハマディ議長と会談して、私たちと同じ働きかけをしており、共同の努力を互いに喜びあい、意気投合しました。
アラブ連盟では、バドル事務局長首席補佐官が「よくも明確な主張をして、平和解決のために重要な前進した立場を確認しましたね」とイラク政府との会談とこの訪問の企画そのものを高く評価しました。イスラム諸国会議機構(OIC)のバヒット政治部長は、会うなり廊下を歩きながら「この歴訪はグレート(偉大だ)」を連発しました。
こうした反応を見ながら、よくぞイラク政府にたいしてきっちりとものをいったと、日本共産党への共感と信頼感をもってくれていることを実感したのです。(つづく)