2006年7月26日(水)「しんぶん赤旗」
9条の国で
過半数世論めざし
戦艦大和の軍港でも
悲惨な体験胸に
広島・呉市
広島県呉市は軍港のまちです。市民の多くが自衛隊や軍事関連企業に関係しています。このまちで“憲法九条を守ろう”の声が高まっています。「なぜって? みんな悲惨な体験をもっちょるんや。戦争だけはしてはいけんのよ」。ずしりとした言葉が返ってきました。(名越正治)
呉の中心部から曲がりくねった道を上っていくと自衛隊官舎や石川島播磨重工のロゴ(社名)をつけた社宅が目に入るベッドタウンです。この焼山(やけやま)地域(人口三万六千人)に五月下旬、「焼山九条の会」が誕生しました。
戦前、呉の海軍工廠(こうしょう)で戦艦大和を建造、「大和ミュージアム」が昨年オープンし、二百万人が訪れ、ブームにわいているようにみえました。
「ところが多彩な人が快くよびかけ人を引き受けてくれたんですよ」。会事務局長の増野雅夫さん(70)=元小学校教師=は話します。
よびかけ人の顔ぶれは僧りょ、元小学校長、元自治会長、原爆被害者友の会会長、絵本作家、老人会連合会長、環境団体役員と多彩です。結成の集いには六十人が会場を埋めました。
その一人ひとりの胸には、痛切な平和への思いがありました。
元教師で保護司や自治会長の経歴を持つ男性(86)は、中国で生まれ育ちました。日本軍が軍刀の切れ味を試し、中国人捕虜を虐殺した場面にも遭遇しました。
結成の集いで、初めてそのことを話しました。
「『日本は負ける』。笑いながら死んでいく中国人もいました。人を狂わせる戦争の愚かさを嫌というほど知りました」
■教え子を戦場に
元小学校長(85)は語ります。「私は天皇陛下に殉死するようにと教え子を育て、戦場に送り出しました」
広島の師範学校に入学したころ、大和が呉海軍工廠で極秘裏に建造されていました。「すごい戦艦ができよる」と小躍りする軍国青年でした。
その大和の姿を脳裏に刻み、国民学校の教師として二十一歳で満州(中国東北部)に渡ります。「天皇陛下のために死のう」と教えました。
赴任先の学校は中国人のコウリャン畑を取り上げ、つぶして建てられました。日本軍は、その中国人をクーリー(筋肉労働者)として重労働を課していました。「おかしいと感じましたが、間違った戦争だとわかったのは、後々のことでした」
■町並みは火の海
戦争は、さまざまな犠牲を人々に押しつけました。別の元小学校長(74)は「これですよ」と一枚の古びた紙を掲げました。「都市疎開ニ伴フ地方転出証明書」とあります。
この人の父親は、東京・中野区の自宅で旋盤工場を営んでいました。「防災地帯にする。五日以内に立ち退け」。軍による通告でした。あわてて家財道具を持ち出すと、戦車が自宅と町並みを一気に踏みつぶしました。「一言の抗議もできなかった親の悔しさを今も忘れません」
到着した呉駅から家財道具を少しずつ牛車に載せ、焼山まで運びます。翌四五年七月には、アメリカのB29爆撃機による空襲で火の海になった街を目の当たりにします。
戦後、教員の道を選び、小学校長も務めました。「戦争をしないと誓った九条の歯止めをはずしてしまったら大変です。平和憲法を何としても守りたい」
「あの日の光景が脳裏に焼きついています」というのは植田雅軌さん(74)=呉市原爆被爆者友の会会長=です。八月六日朝、爆心地に近い製罐(かん)工場に学徒動員で働いていました。ガラスの破片が頭に十数カ所突き刺さり、血だらけで逃れました。外は地獄でした。女子てい身隊員が働いていた隣の工場が全壊し、下敷きになった女学生がうめいていました。
「『助けてやるけ』といいましたが、火の回りが早く手がつけられんかった。二度と戦争しないという前提でつくった憲法を変えてはならない」
■平和願い会誕生
「こんなことは繰り返してはならん」。呉市民は、憲法九条に腹の底からの願いを託し戦後、生きてきました。それを変え、アメリカと一緒になって再び、戦争する国にしようとしている。そうさせてはならない。この思いが「九条の会」を誕生させました。
江戸時代からの古寺の住職(60)もよびかけ人に名を連ねています。大手新聞記者の経歴を持ち、父親の急逝で住職を継ぎました。大学同期に別の新聞社の編集長もいます。
「日本の屋台骨を左右する問題の割には、九条を守る運動のメディアの扱いは小さい。憲法は格調が高い、とてもいい文章です。この会が倍の一万にでもなると、世論が変わると思いますよ」
■反戦の伝統受け
呉には反戦平和のたたかいの伝統があります。日本が中国侵略を開始した直後の三二年二月、軍隊内の日本共産党が「聳(そび)ゆるマスト」を創刊し、侵略戦争やめろと主張しました。
「焼山九条の会」は十五日、地域で“九条守ろう”の横断幕を掲げ、初宣伝に立ち、憲法署名をよびかけました。めざすは有権者過半数です。
事務局長の増野さんはいいます。「悲惨な体験をしちょるで、わしらはみんな“九条派”です。あの暗い時代と違って、今はどこでも堂々と訴えられます。戦争で殺される人も、一人の戦死者も出さないために、『九条守ろう』の国民の意思を発信していきたい」