2004年6月16日(水)「しんぶん赤旗」
北朝鮮の核兵器開発問題や日本人拉致事件など、北朝鮮をめぐる問題は、日本外交の重要課題の一つです。五月の小泉首相の再訪朝による日朝首脳会談につづき、核問題をめぐる六カ国協議も近く開かれる運びで、事態の新たな進展もみられます。北朝鮮問題で日本共産党がどう行動し、解決のためにどんな役割を果たしてきたのかをふりかえってみます。
朝鮮半島をめぐる情勢は、核兵器問題を焦点としつつ、依然として複雑で緊迫した動きをみせています。北朝鮮が核兵器開発に向けた動きをすすめ、“核カード”をもてあそぶ瀬戸際外交をつづけるならば、アメリカに先制攻撃の絶好の口実をあたえ、数十万人の犠牲者が予想される戦争に発展しかねません。
戦争の火種をなくし、軍事的衝突の危険をとりのぞくことがいまなによりも求められています。
北朝鮮問題の解決は、北東アジアの平和と安定に不可欠の課題です。そのためにも、北朝鮮が国際社会との安定した外交関係を打ち立てることが必要ですが、それにはこれまで北朝鮮が犯してきた数々の国際的な無法行為―日本人拉致事件や、ビルマ(現在のミャンマー)・ラングーンでの爆破テロ事件(一九八三年)、日本漁船銃撃事件(八四年)、大韓航空機爆破事件(八七年)などをきっぱりと清算することが、どうしても避けてとおることができません。
日本共産党は、日本の安全と国民の生命を最優先とする立場から、これらの北朝鮮問題を重視し、その平和的な解決に努力してきました。拉致問題もその重要な課題の一つです。
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北朝鮮による日本人拉致事件は、この間、二度にわたる日朝首脳会談を経て、拉致被害者五人と家族五人が帰国するなど、解決へ向け第一歩を踏み出しました。曽我ひとみさんの家族の問題をはじめ、安否不明者の再調査など、残された諸問題の解決へ、努力をいっそう強めなければなりません。
当初、北朝鮮とのかかわりが明らかでなかったこの拉致事件を、国の政治のうえで最初にとりあげて、北朝鮮による犯行の疑いがあるとはっきり認めさせ、解決することを政府に約束させたのは、日本共産党でした。
それは、一九八八年三月二十六日、参議院予算委員会で、日本共産党の橋本敦議員がおこなった質問でした。
橋本質問は、大韓航空機事件の金賢姫(キム・ヒョンヒ)証言に始まり、新潟、福井、鹿児島で発生した一連の「アベック行方不明事件」に関して政府の見解をただしました。日本人に成りすまして韓国に潜入し逮捕された辛光洙(シン・グァンス)事件や、レバノン人女性誘拐事件、韓国の映画監督夫妻の拉致事件と、北朝鮮の関与について事実関係を一つひとつ検証。行方不明となった日本人三組の家族の筆舌につくせない心痛をのべ政府に迫りました。
橋本議員の事実を積み上げたち密な質問と家族の思いを代弁した追及に、最初、北朝鮮との関係になかなかふれようとしなかった政府側も、ついにつぎのように答弁せざるをえなくなりました。
橋本議員「捜査をあずかる国家公安委員長として、こういう家族の今の苦しみや思いをお聞きになりながらどんなふうにお考えでしょうか」
梶山国家公安委員長「昭和五十三年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えております」
北朝鮮による「拉致」の疑惑を、政府が国政の公の場で初めて認めた答弁でした。橋本質問は、拉致問題が日本と北朝鮮との間にあることを明確にし、国としてとりくむ足場を築くうえで重要な役割を果たしたのです。
政府は最近も、公明党議員の質問に答えて、谷垣禎一国家公安委員長が、北朝鮮の犯行の疑いがあると答えたのは、日本共産党の橋本質問が最初だ、と答弁しています(別項参照)。
山口那津男議員(公明)「国会の場で、言わば拉致に関する容疑というものが初めて指摘をされ、警察庁としてこの容疑の存在を認めたというのは一体いつごろになるんでしょうか」
谷垣禎一国家公安委員長 「(八〇年三月に公明党の議員が質問したが)まだ当時はこれが北朝鮮の拉致に関するものであるかどうかということについてはご答弁ができない状況で、まだそういうご答弁はしておりません。その後、八年ほどたちまして……(橋本敦議員が質問した八八年の)三月二十六日の参議院予算委員会では、福井、新潟、鹿児島の各県下のアベック拉致容疑事案とそれから辛光洙事件ですね、これについてご質疑がありまして、それに対して、警察庁としてこれが北朝鮮による拉致の疑いがあるという答弁、そういう答弁ができたのはこのときが最初でございます」(二〇〇二年十一月五日、参議院内閣委員会)
橋本質問で拉致事件を取り上げるきっかけになったのは、前年の十一月に起きた大韓航空機爆破事件でした。日本共産党はいち早くこれは北朝鮮による無法なテロ行為であると厳しく批判していました。
橋本氏は、当時を振り返って「そういう日本共産党だったから、私たちもこの拉致問題をとりあげ、北朝鮮による犯行の疑いが濃厚だとなったあとでも、さらにきびしくこれを追及することを党国会議員団の活動としてやれた……と思います」(本紙二〇〇二年十一月十八日付)と語ります。
事実、日本共産党は、北朝鮮の国際的な無法行為のきざしが現れたときから、一貫して厳しく批判をし、日本国民にたいする権利侵害や主権侵害を許さないという立場を貫き通してきました。
転機となったのは一九六八年でした。北朝鮮は、六七年の終わりごろから、北から南に武力介入する「南進」の危険な企てをつよめ、六八年一月には韓国の大統領官邸のある青瓦台を「武装遊撃隊」に襲撃させました。
これにたいし、日本共産党は、六八年八月〜九月に宮本顕治書記長を団長とする代表団を北朝鮮に送り、「南進」の企ての危険性と有害性を率直に指摘し、金日成指導部の対外政策の誤りをただす努力をしたのです。それ以後、韓国での「遊撃隊」の活動は収束に向かいました。
七〇年代に入ると、北朝鮮は、金日成への個人崇拝を日本の民主運動に押しつける策動をつよめてきました。「金日成思想」が世界革命の指導思想だと宣言され、金日成の還暦祝い(七二年)に名を借りた「贈り物」運動を全国で組織しようとする事態などが次々と起こってきました。
日本共産党は、七二年三月に発表した「赤旗」の論文などで、外国の指導者を神格化したり、その「思想」を絶対化したりすることは、国際友好・連帯運動の精神にそむくものであると、個人崇拝の押しつけをきびしく批判しました。
これにたいし、他の諸政党は、北朝鮮の個人崇拝の押しつけに迎合的な態度をとりました。
八〇年代になると、北朝鮮は無法行為をエスカレートさせます。もっとも激しい形で最初に現れたのが、八三年十月、ビルマの首都ラングーンで、訪問中の全斗煥韓国大統領の一行をねらった爆弾テロ事件でした。
翌八四年には、日本海の公海上で操業していた日本のイカ釣り漁船が北朝鮮の警備艇の銃撃を受け、船長は死亡、漁船は拿捕(だほ)される、という事件が起きました。これも北朝鮮が公海上に「軍事境界線」なるものを勝手に線引きし、漁船がその線を越えたら、侵犯だといって銃撃を加えるという、国際法を無視した不法行為でした。
さらに、八七年十一月には、韓国の大韓航空機が北朝鮮の工作員によってビルマ上空で爆破され乗員・乗客百十五人全員が死亡するという、悲惨な無差別テロ事件を引き起こしました。
これらの無法行為にたいし、日本共産党が公然とその不法性を批判すると、北朝鮮側は、たとえばビルマの爆弾テロ事件では、朝鮮総連傘下の日本語新聞「朝鮮時報」が「謀略に同調する行為」だとして非難を加え、日本漁船銃撃事件では、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」が「内政干渉」だなどと日本共産党を中傷し、攻撃しました。
日本共産党はこれらの攻撃にも「赤旗」紙上に論文を発表し、無法なテロ行為を正当化する北朝鮮側の主張を全面的に論破し、批判しました。
北朝鮮の国際的な無法行為が広がり始めたとき、これを正面から批判する政党は日本共産党以外には、残念ながらありませんでした。政界で北朝鮮問題といえば、国交のない北朝鮮とのいわゆる「窓口外交」が盛んで、自民党や社会党が「窓口」になって北朝鮮側の意向を聞いてくるやりとりに終始していました。
八四年の日本漁船への銃撃事件でも、事件の二カ月後に社会党の石橋委員長が北朝鮮を訪問しましたが、金日成から「あのような時は逃げなければ撃たない」といわれたことを“大成果”のように宣伝しただけでした。
九〇年九月に、自民、社会の両党はそれぞれ訪朝団を派遣し、朝鮮労働党との間で国交樹立をうたった三党共同宣言に調印しましたが、拉致問題をとりあげることはありませんでした。
当時、金丸訪朝団に随行した野中広務氏は、八八年の日本共産党の橋本議員の質問と梶山国家公安委員長の答弁を引用しつつ、著書でこう反省の弁を語っています。「私はといえば、この時点における北朝鮮に対する見方は、まだ非常に甘かったといえる。この金丸訪朝団における交渉では、拉致の問題はまったく取りあげられていない。……行方不明者は北朝鮮の拉致によるものではないかという指摘は、政府内でもあったのである。この問題に早期に触れることができなかったのは、残念である」(『老兵は死なず』)
日本共産党は、北朝鮮が、一九六〇年代後半に危険な「南進」政策をとろうしたときも、一九七〇年代に当時の指導者・金日成の個人崇拝を押しつけてきたさいにも、一九八〇年代に入って顕著になった数々の国際的な無法行為にたいしても、先駆的にまたもっともきびしく批判してきました。そういう自主独立の党であるからこそ、北朝鮮による拉致事件にたいしても、これを正面から批判し追及することができたのです。
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拉致問題を政府に認めさせただけでなく、北朝鮮問題をどう解決するかの提案をおこない、今日につながるレールを敷いたのは日本共産党でした。
一九九八年。北朝鮮がテポドン・ミサイルを発射し、日本列島を飛び越える事件が起きると、日朝間が一挙に緊張しました。双方から“相手が先制的に攻撃してきたらどうするか”という軍事的対応ばかりが議論に出てくる状況でした。
こうした状況を受けて、翌年(一九九九年)一月、日本共産党の不破哲三委員長(当時)は、衆院本会議代表質問で「対話と交渉の場をもたないまま、対立的な関係や雰囲気だけが拡大するという悪循環は早急に断ち切らなければならない」として、北朝鮮と正式の対話と交渉とのルートを開くよう提案しました。
しかし、政府の側からは反応がありませんでした。この当時の状況を、米国務省の元北朝鮮担当の外交官ケネス・キノイ氏は次のように指摘しています。
「米国、韓国を含め他の国々は、東アジアと朝鮮半島の変化する現実に応じて、北朝鮮に対する政策を調整している。…しかし、日本は米軍事力の盾の後ろに隠れて外交政策も米国の外交政策に追随するという、過去五十年来の古い政策にしがみついている」(『北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録』)
米国や韓国が北朝鮮との間で核問題などの懸案を外交交渉で解決しようという機運が高まっている状況を踏まえ、不破氏は同年十一月、二度目の質問をおこないます。(別項参照)
不破氏の二度目の提案は、米国や韓国の外交筋などから国際的な反響も呼びました(別項「緒方証言」)。
水面下で、こうした動きが起こる中で、不破質問から二週間後、社民党の村山富市元首相から超党派の「政党代表訪朝団」に日本共産党も参加するよう要請があったのでした。北朝鮮訪問団への参加要請が、日本共産党にあったのははじめてのことでした。
このとき村山元首相は「不破さんの提案は大事なことだと思う」とのべ、無条件で交渉ルートを開くという提案を訪朝団全体の方針とする姿勢を示唆しました。
実際、訪朝団の出発前の階段で、村山団長から、無条件・無前提にすべての問題を話し合うという提案があり、団の方針として確認されたのでした。
九九年十二月、日本共産党から穀田恵二国対委員長、緒方靖夫国際局長が参加した超党派訪朝団は、北朝鮮代表団と会談。前提なしに日朝政府間交渉を早期に開くことで合意し、日朝交渉の扉を開いていったのです。
この直後に赤十字間の交渉が始まり、翌二〇〇〇年四月には、政府間交渉が七年半ぶりに再開されました。これが〇二年九月の小泉首相の訪朝による日朝首脳会談へとつながっていくのです。
日本共産党の不破哲三委員長が九九年十一月の衆院本会議でおこなった代表質問から。
日本自身、北朝鮮との間には、ミサイル問題、拉致問題などいくつかの紛争問題をもっていますが、それは交渉によって解決すべき交渉の主題であって、その解決を交渉ルートをひらく前提条件としたり、すべてを他の国の外交交渉におまかせするといった態度では、問題は解決できません。
また北朝鮮は、戦前の侵略戦争と植民地支配によって日本が被害をあたえた国ぐにのなかで、その清算がまったく未解決のまま残っているただ一つの国です。そのことの解決をふくめ、北朝鮮との国交の問題などにとりくむ日本自身の責任ある立場をしめす必要があります。
この点で、外交の目標と政策を明確にもち、その努力をつくしてこそ、日本は、アジアと世界の多くの国民が心配している朝鮮半島の情勢の改善と、この地域に平和的な枠組みをつくる事業において積極的な役割をはたしうるでしょう。
日本共産党の緒方靖夫・国際局長の証言
「二回目の不破質問から、村山申し入れのあいだには、政府にたいして二つの方面からの国際的働きかけがあったんだ、と聞きました。韓国の外交通商部とアメリカの国務省の方から、日本共産党の代表が国会でこういう問題提起をしているのに、日本政府はどうして何もしないのか、と詰められた、というのです」(パンフレット『どう考える北朝鮮問題』)
外交において「きぜんとした態度」とはなにか。このことを示したのが、一九九九年の超党派政党訪朝団での日本共産党の代表がとった態度でした。
北朝鮮訪問では、金日成廟(びょう)や生家など四カ所を「お参り」する日程が組みこまれていました。穀田・緒方両氏は「北朝鮮の金日成個人崇拝体制を拒否してきた自主独立の日本共産党として、民主主義と相いれない『個人崇拝』を国民に押しつけた人物にたいし、“儀礼”だとしても、頭を下げることはできない」と相談。代表団の行動には参加するが、一番後ろにいて、頭を下げず、記帳もしない態度をとることにし、他党の代表がおじぎをし、金日成をたたえる記帳をする中、きぜんとした態度を貫きました。この“儀式”を日本側として打ち破ったのは日本共産党代表がはじめてでした。
北朝鮮側は、こうした日本共産党の態度は承知していましたが、同じ日に行われた会談では、日本共産党代表の発言を「いい発言をしてもらいました」(代表団長の金容淳書記)と評価する態度をみせました。武力でも圧力でもなく、きぜんとした態度があればきちんとした外交交渉ができることを実証したのでした。
二〇〇二年九月十七日、小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日国防委員長との日朝首脳会談で、「国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注する」として、日朝国交正常化交渉の早期再開で合意し、平壌宣言が結ばれました。
核・ミサイル問題は「問題解決を図る」こととし、「北東アジア地域の平和と安定を維持、強化する」ための協力も確認されました。
拉致問題も、会談で金国防委員長が事実を認めて謝罪。平壌宣言で「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」という形でとりあげられ、過去の植民地支配の問題を含めて「国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意」が表明されました。
こうした内容を盛り込んだ平壌宣言は、北朝鮮問題の解決に向けての段取りを定めた「ロードマップ(行程表)」という意味をもっています。だからこそ、日本共産党は「重要な前進の一歩」と歓迎したのでした。
日本共産党は同時に、拉致問題は北朝鮮側が事実を認めたというだけではすまされないとして、拉致犯罪の全面的な真相解明、責任者の厳正な処罰、被害者への謝罪と補償などを要求。さらに、拉致被害者の家族の帰国も人道問題として早期実現を求めました。
二〇〇二年九月の日朝首脳会談後、拉致問題をめぐるトラブルで交渉は中断。今回の小泉再訪朝まで一年七カ月もの空白となりました。
この間、日本共産党は、交渉の全過程を知る立場にないことを考慮して外交問題への評価を自制。同時に、北朝鮮問題でとるべき三つの目標(別項)を提起してきました。
今回の再訪朝では、「日朝平壌宣言が日朝関係の基礎である」ことを確認。拉致被害者家族八人のうち五人の帰国が実現し、曽我ひとみさんの家族については第三国で再会できるよう調整をはかることとなりました。また、安否不明者、行方不明者については北朝鮮側が「白紙」からの再調査を約束。小泉首相は、北朝鮮が平壌宣言を順守すれば制裁を発動しないことを表明したのでした。
いわば平壌宣言のレールのうえで交渉が動き出せるようになったのです。そのため、日本共産党は「国交正常化交渉への前進の方向が確認されたことを歓迎する」と評価したのでした。
平壌宣言には、日本共産党が提起した三つの目標すべて含まれているだけでなく、もともと不破提案から流れがつくられてきた交渉による問題解決のレールのうえに結ばれたものでしたから、「歓迎」の表明は当然でした。
▽朝鮮半島に、戦争も動乱も絶対に起こさせないこと
▽拉致問題を全面的に解決すること
▽日本が“過去の遺産”を清算すること
北朝鮮問題が解決すれば、北東アジアにどんな未来が開けるでしょうか。
一九六〇年の日米安保条約改定以来、北朝鮮の動きは、日本の軍備強化と海外派兵体制づくりの発火点になってきました。六〇年代の「三矢作戦」、七〇年代から八〇年代の旧ガイドライン(日米軍事協力の指針)と日米共同作戦づくり、九〇年代の新ガイドラインと海外派兵、有事法制の動きも、「朝鮮有事」が常に口実にされました。
北朝鮮問題が解決し、北東アジアに安定した国際関係が確立したら、日本をめぐる国際環境、安全保障環境が激変することは確実です。
また、北朝鮮の核問題を協議している六カ国協議(北朝鮮、韓国、日本、中国、ロシア、アメリカ)にも前向きの変化を与えることは間違いありません。六カ国協議は、北東アジアの平和と安定にかかわるすべての国が参加しており、この協議を通じて問題の解決が図られれば、北東アジアの平和と安定の新しい枠組みを生み出す可能性をもっています。
さらには、米国の先制攻撃戦略も、その目標の大きな部分をなくしてしまうことになります。
北東アジアで平和の国際関係を築くという目標は、東南アジアの平和への流れとも合流し、アジアと世界の情勢に大きな前向きの変化をもたらすのです。日本共産党は、そうした展望にたって、北朝鮮問題の解決に全力をつくしています。
1945年8月 日本の敗戦で朝鮮半島の植民地支配終了
48年8月 大韓民国が建国
9月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国
50年6月 朝鮮戦争ぼっ発(53年7月休戦協定)
65年6月 日韓条約調印(国交正常化)
68年8月 日本共産党代表団が北朝鮮を訪問、同国の「南進」論にきびしく反対
70年8月 社会党が訪朝団を派遣。北朝鮮と友好関係を樹立
72年5〜6月 公明党が訪朝団を派遣。金日成個人崇拝を礼賛
1970年代後半から80年代前 半に日本人拉致事件相次ぐ
83年11月 北朝鮮の工作員がビルマ(ミャンマー)の首都ラングーンで韓国大統領一行を狙ったテロ事件を起こす。この事件をきびしく批判した日本共産党を朝鮮労働党が攻撃、以後、両党関係は断絶
84年7月 北朝鮮警備艇が第36八千代丸を銃撃、船長を射殺、漁船を拿捕。日本共産党、「北朝鮮による不法行為」と糾弾
87年11月 大韓航空機爆破事件
88年1月 大韓航空機爆破事件で北朝鮮の工作員・金賢姫が犯行を認める。李恩恵(田口八重子さん)の拉致も明るみに。日本共産党、北朝鮮の犯行と断定し蛮行を批判
3月 日本共産党・橋本敦議員が国会で拉致問題を追及。政府として初めて北朝鮮による拉致疑惑認める
90年9月 自民・社会両党訪朝団が金日成主席と会談
91年1月 日朝国交正常化交渉開始
92年11月 交渉中断
93年5月 北朝鮮がミサイル「ノドン1号」を試射
94年7月 金日成主席死亡
97年3月 拉致被害者家族連絡会を結成
10月 金正日総書記就任
98年8月 北朝鮮が日本上空に弾道ミサイル「テポドン」発射
99年1月 日本共産党・不破哲三委員長(当時)が国会で北朝鮮との交渉ルートの確立を提案
11月 不破委員長が国会で再度、無条件の交渉ルートの確立提唱
12月 日本政党代表訪朝団が朝鮮労働党代表団と会談
2000年4月 国交正常化交渉が再開
01年12月 奄美大島沖で不審船事件
02年9月 日朝首脳会談、「平壌宣言」に調印
10月 拉致被害者5人が帰国
北朝鮮、核開発計画の存在認める
2年ぶりに日朝国交正常化交渉
03年1月 北朝鮮、核不拡散条約から脱退を宣言
7月 北朝鮮問題をめぐる6カ国協議開催
04年2月 拉致問題めぐる日朝政府間協議再開
第2回6カ国協議開催
5月 日朝首脳会談。02年の「平壌宣言」を確認。拉致被害者家族5人が帰国