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2017年7月7日(金)

2017とくほう・特報

盧溝橋事件80年と安倍政治

日中全面戦争の泥沼  なぜ陥ったか

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 7月7日は盧溝橋(ろこうきょう)事件から80年です。この事件が発端となり、日本は中国全土での日中全面戦争につきすすみます。今日、安倍晋三政権が、秘密保護法、戦争法=安保法制につづき、思想・良心をとりしまる共謀罪を強行成立させたことに、「戦前回帰」の危険性を感じた市民が少なくありません。今日につながる日中戦争の真相を見ました。(山沢猛)


軍部の強権体制と「中国一撃論」

侵略拡大派が主導

 1937年7月7日午後10時40分ごろ、北京(当時は北平)近郊の永定河(えいていが)にかかる盧溝橋付近で響いた銃声は、その後、8年にわたる日中間の戦争の始まりでした。当時、橋のたもとには北京を守る中国軍駐屯地がありましたが、すぐそばの河原で日本の駐屯軍が夜間演習をしていました。事件そのものは偶発的に発生したものでした。局地的な事件として現地軍の間で停戦協定が成立し決着しました。

 ところが、陸軍は約10万人の大兵力を北京など華北に派遣すると決定。近衛文麿内閣も「武力抗日疑いの余地なし」の声明をだしこれを承認し華北派兵を閣議決定しました。

 この背景には、前年の二・二六事件で軍部強権体制の実権を握った陸軍参謀本部内で、武藤章(A級戦犯、東京裁判で死刑)らが「華北分離工作」の懸案を一気に解決できるという、一見勇ましい「中国一撃論」を主張して勢力をのばし、旧「満州」(中国東北部)重視の不拡大論を抑えたことがありました。

 「華北分離」とは国民党政府の支配から華北5省を分離するのが目的でした。

 日本軍は7月末までに北京を占領。これに対し中国側は華北が「第2の満州」になると懸念し、日本の侵略にたいする危機感を強めます。

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(写真)笠原十九司氏

 日中戦争にくわしい笠原十九司都留文科大学名誉教授(日中関係史)はこう語ります。

 「戦争とはいきなり始まるものではなく、戦争へと進む『前史』があり、それがいよいよ戦争発動、開始の『前夜』の段階まで進むと、軍の謀略や偶発的な事件でも容易に戦争に突入します。盧溝橋事件を発端とした日中戦争の拡大はその典型です」と語ります。

 笠原氏はその「前史」として治安維持法をあげます。1925年に成立し、28年に死刑法にされた希代の悪法と特高警察によって、共産党員をはじめとして自由主義者、宗教者など戦争反対と自由を求める人々を徹底して弾圧しました。「思想・内心の自由を取り締まるという点で、安倍内閣の共謀罪もまったく同じものです」といいます。

 さらに二・二六事件で天皇の統帥権に守られた軍隊の批判を許さない強権体制をつくりました。「陸軍は華北の駐屯軍を約1700人から約5700人に増強し、北京周辺で軍事演習を公然とおこなった。盧溝橋事件は起こるべくして起こったのです」

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(写真)南京への渡洋爆撃を大々的に報じる「東京朝日新聞」=1937年8月16日付

海軍の「南京渡洋爆撃」

大虐殺の先駆けに

 戦争の機運が高まるなかで火種が華中に飛び火します。華中には上海や国民党政府の首都・南京があり、欧米列強も進出していました。

 秘密裏にすすめられた和平交渉で「日華停戦」が実現することを恐れたのが、日本の海軍です。海軍は山本五十六(いそろく)が主導し、すでに中国本土にとどく中型爆撃機(九六式陸上攻撃機)を完成させ、中国の都市爆撃の態勢をとっていました。

 和平交渉を吹き飛ばしたのが大山事件です。

 8月9日夕方、上海特別陸戦隊の大山勇夫中尉が乗った車が、中国保安隊によって何重にも警戒線を敷かれた飛行場周辺に突入し、大山と運転手が射殺される事件がおきます。笠原氏は「情報収集中だったと当時報道されたが、そうではなく大山が死を決しておこなった海軍の謀略事件だった」と指摘します。(笠原著『海軍の日中戦争』平凡社に詳述)

 当時の新聞は「大山中尉射殺される 敵弾集中、無残の最期」(読売新聞)、「悪逆無道、保安隊の暴状」(東京日日新聞)と大々的に報じました。現地海軍の思惑どおり、日本国内の世論が激高し、「暴支膺懲(ようちょう)」(暴虐な中国をこらしめるの意味)が叫ばれ、日中戦争のスローガンになりました。

 8月13日に海軍陸戦隊と中国軍が衝突し「第2次上海事変」が開始され、華北の戦闘は上海に拡大しました。

 海軍航空隊は8月15日、長崎の大村と植民地の台湾から中型爆撃機を飛ばして、宣戦布告もせず首都・南京を爆撃(「南京渡洋爆撃」)。9月になると上海から11次にわたる南京空襲を行いました。撃墜を恐れて3000メートルの高高度から爆撃や夜間空襲をしたため、誤爆による民間の犠牲も多く出ました。南京大虐殺の先駆けでした。

 国民党政府主席の蒋介石(しょうかいせき)は「日本の侵略者を駆逐する」と発表。そのために中国共産党との「国共合作」にふみきり激しく抗戦。「上海事変」は3カ月に及び、日本の戦死者は9000人余になりました。

 近衛内閣は国際的な非難を避けるため戦争を「事変」と言いかえたまま、「北支事変」から中国全土をさす「支那事変」に改称。陸軍は「上海派遣軍」(松井石根(いわね)司令官、A級戦犯で死刑)を派兵。この派遣軍が12月に南京を占領、約20万人と推定される捕虜・非戦闘員の殺害と、略奪・放火・暴行という蛮行をおこないました。(南京大虐殺)

「戦果・美談」描く政府・メディア

国民あおる大宣伝

 海軍省は「世界航空戦史上、未曽有の渡洋爆撃」と大宣伝しました。新聞メディアも「我が海軍機 長駆南京へ 空軍根拠地を爆撃す 敵に甚大な損害を与う」(東京朝日新聞8月15日号外)などセンセーショナルに報道。実際には中国軍機と対空砲の反撃で20機、約60人が犠牲になりました。

 渡洋爆撃は少年向けの軍国美談にもなり、「海陸の荒鷲大暴れ・大活躍の海軍航空隊」などと、少年の“憧れ”をあおりました。

 国民が軍用機を献納する運動が起こされ、各新聞社が競って「銀翼献金」を宣伝。政府の臨時軍事費の大盤振る舞いにもつながりました。

 笠原氏は「日中戦争の全面化は日本の“自滅のシナリオ”の始まりでした。南京大虐殺事件を起こし、中国の奥地へと戦線を広げて泥沼にはまり込んでいきます。軍部にはできない外交による解決が必要だったときに、それを担う政治がありませんでした。軍事対決をあおり外交不在のいまの安倍政治とそっくりです。若い皆さんには歴史の真実、教訓をしっかりと学んでほしいと念願しています」と語ります。

 二・二六事件 1936年2月26日早朝、陸軍内の派閥・皇道派の青年将校が1400人の兵力を率い「昭和維新」を掲げ蔵相、内大臣などを殺害、永田町一帯を占領しクーデターを試みた事件。天皇の命令で鎮圧され17人に死刑執行。事件の結果、軍部の強権政治体制が確立しました。


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