2017年6月25日(日)
沖縄戦 日本兵の住民虐殺
不戦願って初記載
無実の9人を「スパイ容疑」で
国頭村史
沖縄県北部の国頭(くにがみ)村で、沖縄戦中に住民や中南部からの避難民9人が日本兵に「スパイ容疑」で虐殺されていた惨事の詳細が、昨年11月に刊行された国頭村制施行百周年記念村史『くんじゃん』に初めて記載されました。戦後70年余の長い歳月にわたる「封印」を解き、事実を語り、記録した関係者の思いを追いました。(山本眞直)
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村史編さん委員の一人は「虐殺の事実の記載は最後まで賛否両論があったが、関係者の強い思いが踏み切らせた」といいます。
日本兵による村民虐殺は村内3カ所で起きました。いずれも根拠のない「スパイ容疑」。村民の証言、記録をもとにした村史の記述によると―。
伊地での宜名真・辺戸住民惨殺事件
住民4人が殺された。「柴雲隊の伊沢らの仕業」で、沖縄戦の終焉(しゅうえん)=6月23日=から10日後の7月4日、宜名真、辺戸の住民4人(いずれも男性)が羽地の田井等収容所から解放され、部落に帰る途中、追いかけてきた「伊沢ら敗残兵グループ」に襲われた。死体は道端に放置され、伊沢らは「収容所に入った者はスパイだ」と口にしていた。
桃原での疎開民惨殺事件
5月にはいったばかりのある夜、那覇市から疎開し桃原の公会堂近くに投宿していた「高嶺さん一家」を日本兵が夜襲、手りゅう弾のような爆発物を投げこみ奥さんが死亡。「死体は頭から顔面、手足が焼きただれたような無残な姿であった」
村民の間で交わされていたのが「昨日、日本兵の斥候らしき不審者を見かけた。爆発物は黄燐手りゅう弾ではないか」。桃原は戦災がなく民家がそのまま残っていたので、山中の避難小屋から浜に近い集落への下山を促していた「盛栄オジー」は日本兵から「スパイ指名」を受け、命を狙われていた。高嶺一家は「盛栄オジー」と間違って襲われたのではないか、と。
半地ザークビーでの疎開民惨殺事件
半地には中部の読谷村から多くの疎開民が避難。半地の「知花屋」(屋号)に住んでいた読谷村民グループが日本兵に目を付けられ、「スパイ嫌疑で引っ張られ、100メートル先のザークビー(座峠)で4人から5人が手首を縛られ、めった斬りされ、一面に血が飛び散っていた」
ザークビーでの惨殺の様子を父親から繰り返し聞かされ、それを証言した男性はその思いをこう語りました。
「日本兵による避難民虐殺には住民も協力した。当時、スパイ摘発は当然という風潮もあり協力した住民は『日本兵と一緒にスパイを処分した』と英雄気取りで口にしていたという。虐殺を知りながらも住民のなかにも口にできない空気が長くあった。被害にあった遺族ですら『病気で死んだ』としか言えなかった。しかし住民虐殺の事実は子々孫々に伝えなければならない。命の大事さ、平和を願うことに貢献できれば幸いだ」
証言聞き取りをした編さん委員 知花 博康さん(81)
証言をしてくれた村民は、虐殺に住民が関与していたこともありずっと悩んでいたが、勇気をもって話してくれた。当時は日本兵とつながり通報、今でいう密告に対する罪の意識はなかった。今も書くことを許さない、かたくなに拒む空気がある。国頭村には中南部から収容しきれないほどの避難民が押し寄せ、食料も不足する中、旧日本兵は日本刀を振りかざして食料を奪い、スパイ容疑で住民に襲いかかった。悲惨な歴史を封印せず、不戦のための教材になればと願って編さんした。