2016年2月23日(火)
主張
「君が代」の強制
子どもたちの思い押しつぶすな
卒業式のシーズンが近づきました。子どもたちが成長を確かめ合い、旅立ちをみんなで祝う式にしたいものです。ところが子どもたちの思いを押しつぶす現実があります。全員が壇上正面の「日の丸」を向く画一的な形式しか認めない。式の最中に校長が教職員の口元をチェックする。子どもたちにも「君が代」を大声で歌うよう強要する―。そんな異常ともいえる事態を引き起こしている「日の丸・君が代」の強制です。
思想良心の自由に反する
「日の丸・君が代」については多様な意見がありますが、それらが日本の侵略戦争のシンボルとして使われたことは歴史の事実です。「日の丸」に向かって起立したくない、「君が代」は歌いたくないという人たちも当然います。国旗・国歌法成立時には政府も「強制はしない」と答弁していました。
「君が代」斉唱のさいに校長の職務命令に反して起立しなかったことを理由に処分された東京都の教職員が起こした裁判では、2012年の最高裁判決以来、減給・停職の処分は重過ぎるとして、取り消す司法判断が続いています。
一連の判決は、戒告処分を容認しているという問題はありますが、不起立は「歴史観・世界観に起因するもの」で、起立強制の職務命令は「思想・良心の自由の間接的な制約となる面」があるとしています。昨年12月の東京高裁判決は、不起立に対して重い処分など「過大な不利益」が課されれば「自由の侵害になりうる」とのべています。起立・斉唱の強制が思想・良心の自由の制約となることを司法も事実上認めているのです。
にもかかわらず、処分で脅して教職員を起立させ、子どもたちにも大声で歌うことを強要するなどのことが各地で行われています。憲法や子どもの権利条約が保障している思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由を踏みにじるもので、許されません。
卒業式や入学式は、それぞれの学校で子ども・保護者・教職員が話し合って、子どもたちの門出にふさわしいものにするのが本来のありかたです。「日の丸・君が代」をどう扱うかも、自主的に決めていくべきことです。
安倍晋三政権は国立大学にまで卒業式・入学式での「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱を押し付けようとしています。「日の丸・君が代」をどうするかは各大学が判断することで、国が口出しするのは大学の自治、学問の自由の侵害です。
「日の丸・君が代」の強制が、個人の尊重より国家を優先する安倍政治のもとで強まっていることは重大です。個人の尊厳を守る各分野の運動と結んで、強制をやめさせていくことが求められます。
自由で闊達な教育を
教育は人間的ふれあいを通じて営まれてこそ、子どもたちが豊かに成長できます。処分を振りかざして上から強制することは、学校現場を萎縮させ、人間的ふれあいのある教育を困難にするだけです。最高裁の裁判官からも、「不起立と懲戒処分が繰り返される事態」を「一日も早く解消し、これまでにもまして自由で闊達(かったつ)な教育が実施されていくことが望まれる」との意見が出ています。
思想・良心の自由、信教の自由を奪い、教育現場を重苦しいものにしている「日の丸・君が代」の強制は直ちにやめるべきです。