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2016年2月8日(月)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第5巻を語る(上)

コミンテルン解散の虚実

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 日本共産党の不破哲三・社会科学研究所所長の『スターリン秘史―巨悪の成立と展開』第5巻「大戦下の覇権主義(下)」をめぐり、不破さん、石川康宏・神戸女学院大学教授、山口富男・社会科学研究所副所長の3人が語り合いました。


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(写真)『スターリン秘史』第5巻

 山口 石川さんは昨年、『スターリン秘史』の学習会の講師をされたんですね。

 石川 これだけ大部のものですから、さわりを話しただけなのですが、それでも「自分の頭の中の歴史観と相当に違う」という驚きや、「もっとよく知りたい」という関心の高さを感じさせられました。

 不破 世界史の新しい見方が、そうして若い人たちに広がってゆくというのは、うれしいことですね。

ユーゴの人民政府樹立を恐れるスターリン

 山口 第5巻は、ユーゴスラヴィアの解放闘争の続きから始まります(第21章)。闘争はいよいよ、人民解放軍が旧体制を打ち破って人民政府を樹立する段階に入ってくる。ところが、スターリンは、それを阻止するために「政府樹立はやめよ」という指示まで出す。チトーはそれに屈せず、困難を乗り越えて連合軍との国際的連帯の道を自主的にひらいてゆく。覇権主義との闘争も新しい段階を迎えるのですね。

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(写真)不破哲三さん

 不破 戦後の東ヨーロッパを支配下におくというスターリンの思惑からいえば、ソ連の赤軍がドイツの占領下にある国々を解放して、ソ連主導で新政権をつくるのがベストなのですから、ソ連軍の進撃以前に人民政権をつくられたら、困るのです。

 ところがチトーは、スターリンが支援を拒否する冷淡な態度をとっても、独力で勝ち抜く。コミンテルンを通じて「人民政府はつくるな」と指示がくると、“政府”とは名乗らないが、人民解放委員会という事実上の政府をつくり(1942年)、しぶとく外交活動を展開して、43年には米英の連合軍との独自の関係を確立してしまう。

 一方、スターリンは、チトーに政権樹立反対の指示を出したほぼ同じ時期に、裏切り者のミハイロヴィチ軍に軍事代表団を送りたいと、ロンドンのユーゴ亡命政府に手紙を出しています。ともかく解放勢力を抑え込むためには、どんな勢力でも利用しようというのです。これは亡命政府の方から断られて、完全な失敗でした。

2人の覇権主義者による「連合政府」構想

 山口 そのあともスターリンの策謀は続くのですね。前回のこの鼎談(ていだん)で出てきた、バルカンの支配権をめぐるスターリンとチャーチルの取り決め(44年10月)では、ユーゴはソ連とイギリスで50対50とされましたね。

 不破 この時期になると、もうだれもチトーの人民政府を無視できないのです。そこで、チャーチルは、人民政府とロンドンの亡命政府を合体させることで、戦後のユーゴにたいするイギリスの影響力を確保するという構想をもった。それが、その段階で、チトーを抑え込みたいというスターリンの思惑と一致した。ともかく、異質な部分が新しいユーゴ政権に入れば、その勢力を自分の思うように利用できるという思惑ですね。

 山口 その後、スターリンが、“王制下の連合政府”というチャーチルの構想に肩入れしてゆくのも、そこに魂胆があったのですね。

 不破 ユーゴで人民政府が全権を握るのを阻止しよう、この点で2人の覇権主義者が一致し、ヤルタ会談(45年2月)で「連合政府」構想を連合国の方針として決めるわけです。ユーゴの解放勢力はまったくかやの外でした。それを切り抜けて、解放国家をつくりあげたチトーの指導力はたいしたものでした。亡命政府から連合政権に入った閣僚もその後、チトーに心服してしまうんですよね。

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(写真)石川康宏さん

 石川 今も「第2次世界大戦での反ファッショのたたかいでは、スターリンも大きな役割を果たしたのでは」という議論にぶつかることがありますが、彼がこの戦争で追求したのは、反ファッショ、民主主義の擁護ではなく、覇権主義的な支配の拡大だったのですね。ポーランドやユーゴに対するソ連のふるまいを見ると、そのことがよく理解できます。

 不破 最初はヒトラーと組んで領土拡張を行い、次は連合国の一翼を担ってヒトラーを撃破する重要な任務を担いましたが、独ソ協定でソ連の勢力圏とされたものより、連合国の一員となって得た領域の方がはるかに大きいのです。ドイツの東半分を含めて東ヨーロッパ全体を支配圏に組み入れたわけですからね。

コミンテルンはなぜ解散したのか

解散問題は大きな謎として残ってきた

 山口 第22、23章ではコミンテルン解散がとりあげられています。これは、これまで公式には偽りの説明がされていただけに、大きな“謎”となってきた問題でした。

 不破 実際、ことの真相はなかなかわからなかったんですよ。“コミンテルンの存在が国際的な反ファッショ統一戦線の邪魔になる”といわれましたが、ユーゴをはじめ、共産党の運動があるから米英ソ連合にヒビが入るといった問題は、現実にはどこでも起きていませんでしたからね。

 私がこの真相に初めて触れたのは、91年のソ連崩壊後、『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(93年)執筆の際に手に入れたソ連文書で、コミンテルンの書記長だったディミトロフが、解散後、「国際情報部」というソ連共産党の秘密部門の長として活動していたことを知ったときでした。

 それで何となくわかってきたんだが、今回『ディミトロフ日記』を読んで、コミンテルン解散後も、各国共産党へのモスクワの指導体制が従来通り残っていたことを知りました。変わったのは、その指導がスターリン自身の直接指導という体制になったことでした。

西欧と東欧――勢力圏の分割に応じた新体制だった

 不破 なぜ、43年5月に急に問題になったのか。第2次大戦の局面が変わったからなのです。ヨーロッパの東部戦線ではソ連がドイツを圧倒するようになり、西ヨーロッパでも英米軍がイタリア上陸などの攻勢を開始し、戦後のヨーロッパの状況も見えてきました。

 その時期に、スターリンは、いまのままの体制で、今後、各国の党を自分の思うように動かせるかということを、考えたのですね。西欧諸国では、共産党は、資本主義体制のもとでの一政党としてそれなりの地位を占めればよいが、東ヨーロッパはソ連の支配下において、それにふさわしい政治体制をつくる。こういう、勢力圏の分割に応じた指導の使い分けを実行するには、コミンテルンという国際機関は妨害物であって、スターリンが直接指導する新しい体制が必要になる。これがコミンテルン解散の本当の理由でした。今回の研究ではじめて到達した結論でした。

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(写真)山口富男さん

 山口 43年5月にスターリンが突然解散を命令したとき、ディミトロフたちは一切、疑問も意見も出していませんね。

 不破 独ソ戦開始前の41年4月、スターリンが解散の話をもちだした時には、コミンテルンの書記長であるディミトロフにスターリンが直接話をしています。ところが、43年には担当政治局員のモロトフに言わせています。コミンテルンの格がそれだけ下がっていたわけですね。

 石川 35年のコミンテルン第7回大会では、イタリア共産党のトリアッチやフランス共産党のトレーズは反ファッショ人民戦線という歴史的な方針の確立に大きな役割を果たしました。ところが、コミンテルンの解散というスターリンからの命令に対しては、一夜漬けで、これを発表する声明をつくることしかできなくなっていた。

 不破さんは、これをコミンテルン幹部の“知的退廃”の表れだと書いていますが、スターリンの指示に従って行動することに慣らされてしまい、自分で考えることをやめてしまった結果だということですね。なんとも痛々しい話です。

「サレルノの転回」もスターリンの演出だった

 不破 いま見てきた状況がはっきり出てくるのが、フランスとイタリアの解放闘争への対応ですよ。

 イタリアでは、連合国軍への降伏(43年9月)後、解放勢力の間で、ムソリーニを押したててきた国王の退位、ファッショ軍の幹部だったバドリオ政権の退陣を求める機運が強まり、イタリアの政治戦線を二分していました。

 そこへ44年3月、イタリア共産党のトリアッチがモスクワから帰国、解放諸勢力がサレルノで開いた会議で、(1)国王に退位を求めず、王制の存廃は戦争終結後に国民の意思で決める、(2)反ファッショ勢力の統一を優先しバドリオ政権を排除しない、という大方針を提案したのです。

 このトリアッチ提案は政界全体に衝撃を与え、政局を一挙に打開し、トリアッチの声価を高めました。これは、「サレルノの転回」として今もイタリア政治史に大きく記録されています。

 ところが、『ディミトロフ日記』によると、これはスターリンが演出したものでした。帰国前にトリアッチがディミトロフらと相談してつくった方針は、国王の退位要求、バドリオ政権への入閣拒否、解放戦線政府の樹立というまったく逆の方針でした。それが、スターリンに呼ばれて、新方針を与えられ、それに忠実に従って「サレルノの転回」を実現したのでした。『日記』にはっきり記されたこの真相には、本当に驚かされました。

方針転換の指示はディミトロフ抜きで

 不破 フランスでも似たようなことが起こりました。44年8月、パリが解放されて、9月にはドゴールとレジスタンス諸勢力による臨時政府が発足します。まだ全フランスが解放されたわけではなく、各地での武装抵抗闘争はまだ続いていましたが、ドゴールは、正規軍への編入という口実でレジスタンスの武装組織の解散を要求し、大問題になりました。

 ここでも、モスクワから帰国したトレーズの指導で、フランス共産党はそれまでの方針を転換して、武装組織を解散し、ドゴール政権への入閣を実現しました。この転換も、戦後のフランス政治で共産党が大きな比重を占める要因となりました。

 どちらの場合にも、こうした方針転換の指示は、ディミトロフには直接には知らされませんでした。スターリンから指示を受けた翌日、トリアッチやトレーズから話を聞いて、はじめて転換の事実を知らされるわけです。自分が同じようにモスクワに座っていても、その立場がコミンテルン解散でいかに変わったか、そのことを誰よりも痛切に感じたのがディミトロフだったと思います。

他党の名前を使って干渉する仕掛け

 山口 コミンテルンという国際組織がなくなると、ヨーロッパ以外、とくにアメリカなどには水面下の指導がとどかない。そのもとで台頭したのが、米英ソ連合とともに“階級協調の時代が来た”というアメリカ共産党のブラウダー主義でした。

 そこでスターリンがやったのが、ソ連共産党を表に出さずに、他党の名義で批判するという仕掛けです。ブラウダー主義を批判するために、フランス共産党のデュクロ名の論文が出た。第23章ではその問題がとりあげられています。

 不破 これは、アメリカでは早くから、当時フランスで手に入らなかった資料が論文に引用されていることなどが指摘されていましたが、ソ連崩壊後に“ロシア語の原文をフランス語に翻訳した”という文書記録まで出ていたのですよ。

 山口 スターリンの後継者たちの時代の話ですが、アルゼンチンの共産党が突然、日本共産党攻撃の論文を発表(74年)したり、アメリカ共産党の書記長が日本共産党を批判(82年)したりするといったことが、しばしば起こりました。不破さんがのべているように、これらは、後継者たちが“他党の名義を使って攻撃する”というスターリンの手法を受け継いだものですね。

 不破 アルゼンチン共産党の批判論文には、ロシア語から翻訳したとしか思えない文章があちこち出てくるのですよ。

 石川 若い頃、『日本共産党国際問題重要論文集』などを読んでいて、なぜこの党が突然、日本の共産党に攻撃を仕掛けてくるのか、そこの脈絡がまったくつかめなかった記憶がありますね。さかのぼればスターリンの手法だったとは。

 (つづく)


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