2015年12月13日(日)
2015 とくほう・特報
旧日本軍関係者が語る南京大虐殺
恥ずかしい安倍政権の反発
ユネスコが「世界記憶遺産」として中国申請の資料を登録した(10月10日)ことで、話題となった日本軍による南京大虐殺事件(南京事件)。1937年12月13日の南京入城を前後し、南京攻略戦と占領時に日本軍がおこなった戦時国際法・国際人道法に反する、中国の軍民への不法残虐行為です。日本軍関係者の資料を中心に南京大虐殺を見てみます。(若林明)
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安倍晋三首相は記憶遺産への登録に、「遺憾」を表明しました。菅義偉官房長官は、登録を不満としてユネスコへの拠出金停止や減額を検討するといい、馳浩文部科学相が記憶遺産制度の「改善」を求めました。
日本政府が10月のユネスコ会合に同行させた高橋史朗明星大学教授は「『南京大虐殺』の歴史捏造(ねつぞう)を正す国民会議」の呼びかけ人の一人です。同会の「声明文及び要請文」(10月23日)は、記憶遺産登録について「歪(ゆが)められ捏造された歴史『事実』を登録承認したことに、強い憤りと危機感を抱く」と、「南京事件否定論」を述べています。
しかし、南京大虐殺は、「捏造」どころか、学問上も、国際的にもみとめられた歴史上の事実です。
中国戦線の岡村大将/“市民に暴行は事実”
旧日本軍の岡村寧次(やすじ)は、1932年に上海派遣軍参謀副長に着任以後、支那派遣軍総司令官として終戦を迎えるまで、中国戦線を指揮した中心的な軍人です。岡村は、戦後、防衛庁(当時)の戦史室に依頼されて「戦場体験記録」をまとめています。(『岡村寧次大将資料 上巻―戦場回想編―』として刊行)
岡村は南京事件の直後に、南京攻略戦に参加した第6師団や第9師団を含む第11軍を率いて、漢口攻略戦を指揮します。司令官着任直後(38年9月)に、「南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂(うわさ)を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずる」上での必要性から、「南京事件」について将校らに聞き取りを行いました。
その結果について「一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜(ふりょ)(捕虜)を殺してしまう弊がある。一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであるといったという」とまとめています。
岡村は南京での日本軍の性的暴行や捕虜虐殺を確認したのです。岡村は「戦場体験記録」に「南京事件の轍を覆(ふ)まないための配慮」「軍、風紀所見」を記しています。
日本陸軍の中枢にいた人物が、当時から「南京大虐殺」を事実として認めていたことは明らかです。
旧陸軍将校の親睦団体/“非はわれわれの側に”
旧陸軍将校と元自衛隊幹部の親睦団体「偕行(かいこう)社」は、機関誌『偕行』に「証言による『南京戦史』」を連載します。(1984年4月号〜85年3月号)
「多くの敗残兵を捕えたが、“ヤッテシマエ”と襲いかかるケースが多かった。城内掃蕩(そうとう)中でも、獅子山付近で百四・五十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した」(島田勝巳第二機関銃中隊長の遺稿)、「大勢のなかには刺殺、斬首などの真似をした 馬鹿者も居りました」「入城後数日、下関(シャーカン)で毎日、捕虜が処分されているという噂を聞き、又実際にその光景を見ました。…一人ずつ歩かせて桟橋の端に来た時、突き落として小銃で射殺していました」(石松正敏第二野戦高射砲兵司令部副官の述懐)など戦場にいた兵士から証言が寄せられています。
『偕行』(83年11月号)は、「いわゆる『南京事件』に関する情報提供のお願い」という読者に投稿を呼びかける記事を掲載しました。よびかけの目的は、「虚妄の批難に対し、具体的な反証する手だてがないのが現状であり、『南京大虐殺』などという茫漠(ぼうばく)たる表現をもって一括され、20万、30万という膨大な数が日本軍の暴虐のあかしとしてまかり通っている」ことへの反論だとしています。
ところが、集められた証言は、先に引用したように、「大虐殺」を認めるものが少なくなかったのです。
連載の最終回(1985年3月号)で『偕行』編集部の執筆責任者の加登川幸太郎氏は「(死者数の)膨大な数字を前にして暗然たらざるを得ない…この大量の不法処理には弁解の言葉はない」と虐殺の事実を認めざるを得ませんでした。加登川氏は「中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」「特に被害者である中国の人びとが、日本軍の非行を何と告発、非難されようが、非はわれわれの側にある。これは何とも致し方がない」と述べています。
なぜ大虐殺が起こったのか。日本軍の中国侵略を研究する伊香俊哉都留文科大学教授は「南京占領戦は基本的に旅団長や師団長から、捕虜をとらないという方針が出ていました。大量の中国軍を降伏させてもどう扱うかきちんとしていなかった。それが虐殺につながった。さらに中国軍、中国人に対する日本側の蔑視がありました。中国人捕虜なら殺しても問題にならないという感覚があった」と指摘します。
南京大虐殺の犠牲者数で、現在の学問研究で有力な説は「十数万以上、それも二〇万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になった」(笠原十九司『南京事件』)です。ただしこれは、現在の資料の発見状況からの推定です。日本軍は連合国の追及を恐れて、敗戦前後に、多くの資料を焼却しました。陣中日誌などの資料が公開されているのは、全部隊の3分の1程度だといわれています。
情報統制によって国民には知らされていなかった南京事件は外務省の官僚や、「陸軍大学の学生」まで多くの軍関係者は知っていました。さらに、海外のジャーナリストや外交官によって世界に発信されました。戦後、連合国は南京事件を重視します。日本の戦争責任を裁いた極東軍事裁判(東京裁判)で南京戦の司令官の松井石根(いわね)大将は死刑になりました。
笠原十九司都留文科大学名誉教授は「南京事件は負の遺産として、日本だけでなく人類的に見て教訓にすべきです。なぜ、あんな残虐な事件が起こったのかを記憶としてとどめておくべきでしょう。記憶遺産登録に反発するのは、否定論に立っているということを国際的にしめすことになり、恥ずかしいことです」と指摘します。