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2015年11月23日(月)

2015 とくほう・特報

戦後70年―日本の戦争を考える

旧日本軍の毒ガス兵器

私は“鬼”にされた 元養成工

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 第2次世界大戦で日本軍は毒ガス兵器を大量に製造し、おもに中国での侵略戦争で使いました。敗戦時に70万発といわれる毒ガス弾が中国各地に廃棄され、今も人々に被害を与えています。国際条約で使用が禁じられていた日本の毒ガス製造の証言、戦争での使用、遺棄化学兵器の問題を見ます。 (山沢猛)


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(写真)毒ガスの製造工程図を前に話す藤本安馬さん

中国で使用・遺棄

 「私はあの島で毒ガスをつくりました。そのために私や仲間の養成工はみんな障害者になりました。しかし、私は被害者ではありません。私は毒ガスをつくった加害者である。その責任は永久にもち続けなければなりません」

 声を振り絞るように話すのは藤本安馬さん(89)=広島県三原市在住=。見かけはかくしゃくとしていますが、慢性気管支炎でたんがとまらず、消化器にも障害が及び13年前にがんで胃と十二指腸と摘出しました。

 「あの島」とは、瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのじま)(広島県竹原市)。JR呉線の忠海(ただのうみ)駅の沖合にある周囲4キロの島です。いま700羽のウサギが島中に放し飼いされ、秋の休日には1000人を超える人々が訪れる緑の“ウサギの島”となっています。

「死の露」と

 藤本さんは話します。「1941年4月1日、私は15歳半で技能者養成所に入所し、毒ガスをつくる勉強をしました。島に上陸したとたん、なんとも言えない異様な臭いがした」。家が貧しかったため「お金をもらいながら勉強することができる」という誘いにひかれ、寮に入り島に通いました。

 製造所の正式の名前は「東京第2陸軍造兵廠(しょう)忠海製造所」。島は地図上からも消され、島で見聞きしたことは親にも話していけないというきびしい情報統制がしかれました。

 藤本さんたちがつくったのは、びらん(ただれ)性の毒ガス・ルイサイトでした。猛毒のヒ素(亜ヒ酸)を含み、一度皮膚にふれると大きな水泡ができ、やけどのようにただれて「死の露」と呼ばれる致死性の高い毒ガスでした。淡黄色で「きい2号」と暗号名で呼ばれました。

 他の工室でも、びらん性のイペリット(きい1号、液体)、嘔吐(おうと)性のジフェニールシアンアルシン(あか1号、固体で加熱しガス化)、血液・中枢神経に作用する青酸(ちゃ1号、液体)、催涙性のクロロアセトフェノン(みどり1号、粉状結晶)などをつくっていました。

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(写真)いまも残る巨大な毒ガス貯蔵タンクの跡。高さが11メートル、6基あり1基100トンの毒ガス液を貯蔵しました。「この地面の下はまだ毒で汚染されています」(毒ガス島歴史研究所の山内正之さん)=7日、広島県竹原市の大久野島

 米軍文書によると島では終戦まで総量6616トンの毒ガスを製造しました。

 藤本さんの口から、ルイサイトや、その原料の三塩化ヒ素、濃硫酸、アセチレンガスなどの化学式が正確に出てきます。

 「中国の侵略戦争で日本が勝利するための毒ガスをつくる、その毒ガスの勉強をするということですから、これは“英雄”ですよ。教育は人間が生きるために受けるものなのに、その教育によって人間は“鬼”になる。私は鬼にされたんです」

より残虐に

 毒ガスは大久野島から福岡県の陸軍曽根製造所に運ばれ、砲弾や投下弾に充填(じゅうてん)され、アジア各地の日本軍に配備されました。

 日本軍は1937年の盧溝橋事件後、中国への侵略戦争を全土に広げる中で毒ガス使用をエスカレート。その内容も嘔吐性のあか弾中心から、より致死性の高いきい弾(イペリット・ルイサイト)に変わっていきました。揚子江中流域の都市・宜昌( ぎ しょう)攻防戦(41年10月)で国民党軍に追い詰められた日本軍が2500発の毒ガス弾を使ったことが連合国に知られるきっかけになりました。華北地方で中国共産党の八路軍のゲリラ戦に手を焼いた日本軍がその根拠地の村に撒毒(さんどく)した(生活の場や食物への毒ガス液の散布)、密閉した地下道に隠れた民兵・住民に対するガス筒の使用はその残虐さの一端を示しています。

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(写真)(上)1日13往復、毒ガス液が入ったドラム缶を桟橋まで運びました(岡田黎子さんの著作『大久野島・動員学徒の語り』から)(下)大久野島での学徒動員を描いた絵について語る岡田さん(左)。右は寺田元子共産党三原市議

謝罪込め絵本寄贈 元動員学徒

私も加害者

 島での体験を加害の謝罪をこめて絵本にして中国の戦争記念館、学校、病院に寄贈した人がいます。動員学徒の1人、岡田黎子(れいこ)さん(86)=三原市在住=です。

  「私も毒ガス障害者です。島に行った人は全員が慢性気管支炎です。旧制中学で私より1級下の男子生徒は戦争末期に、毒ガス工場の建物を引き倒す作業をしました。何も知らされませんでしたから、マスクもせず、毒物が付着した粉じんを吸い込んで、肺がんで亡くなった人が多くありました」

 9カ月間島に通い軍人から点呼をとられ、「一つ、軍人は忠節をつくすを本分とすべし…」と軍人勅諭5カ条を全員で唱えました。

 岡田さんたちの作業はおもに発煙筒づくり、風船爆弾の気球づくり、そして毒ガスの運搬作業でした。

 「敗戦の年の7月、大久野島が空襲されたらたいへんなことになるというので、貯蔵の毒ガスを向かいの大三島(愛媛県)に疎開させることになった。倉庫から桟橋まで運んだが、古いドラム缶は口のところから白や黄色、茶色のどろっとした液がもれ出ていた。軍手を配られたが、午後3時ごろには涙や鼻水、くしゃみがとまらず、何も知らないからお互いの顔を見合って笑っていました」

 戦後、学校の美術の教師を務め退職後に昭和天皇が死亡。「昭和という時代は悪い時代だった。最高責任者だった天皇はアジア人にたいそう迷惑かけたし、日本人も被害を受けました」。しかし、ふと考えると自分も子どもだったけれど大久野島でやっている、私だって加害者だ、やらされただけではすまされん、とくに中国の人には「三光」などひどいことをやったと思い至りました。大久野島での体験を絵にして説明に英文もつけて、中国と、人の手も借りてフィリピン、インドネシア、アメリカにも届けました。たくさんの返事が返ってきました。

 「この本は私の謝罪の本です。これが縁で上海の産婦人科の女性の院長さんとは20年以上お付き合いしました。ひどいことをしたから日本人のことは受け入れてくれんだろうと思っていた。うれしかったです」

 岡田さんは9年前に地元の9条の会に参加、9月19日の安倍政権の戦争法強行採決のときには「いてもたってもいられん」と三原駅前の街頭宣伝に参加し手作りの原稿をもってマイクをにぎりました。

今も口つぐむ元幹部

海軍工廠跡でも被害

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(写真)工事中に毒ガス入りのビール瓶が出土した高速道路の橋脚下を指す北宏一朗さん=神奈川県寒川町

 2002年9月、神奈川県寒川町の首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の橋脚の工事現場で、イペリットなど毒ガスが入ったビール瓶が出てきて、下請け作業員10人以上が被毒する事件が発生。806本のビール瓶が出てきた現場は毒ガスを製造した相模海軍工廠(しょう)(寒川町、平塚市)の中心部跡で、戦後、化学会社に払い下げられた土地の一部でした。

 この地で毒ガス問題を追跡・調査する北宏一朗さんは「相模湾は米軍が上陸する『本土決戦』の場とされていた。ビール瓶は手投げで使うものでしょう。敗戦時に工廠の軍幹部が戦犯になるのを恐れて隠し、今も口をつぐんでいる。他でも毒ガスが見つかっている」といいます。当時30代の作業員は13年たった今も仕事ができず、視野狭窄(きょうさく)、気管支炎、下痢、握力がない、皮膚移植でも治らないケロイドなどに苦しめられています。


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