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2015年10月19日(月)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』 第4巻を語る(上)

戦前・戦中、スターリン外交の内幕を読み解く

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 日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長の『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第4巻「大戦下の覇権主義(中)」をめぐり、不破さん、石川康宏神戸女学院大学教授、山口富男社会科学研究所副所長が語りあいました。


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(写真)『スターリン秘史』第4巻

 山口 第4巻は1941年6月の独ソ戦の開始前後を扱っています。スターリンが新たな事態に直面して何を考え、どう動き、とくにポーランドとユーゴスラヴィアで覇権主義の要求をどう貫徹していったかを追っています。大戦外交史の内幕に踏み込んで鋭く分析しており、歴史の臨場感がよく表れた巻です。

世界分割案に幻惑され、ドイツの不意打ちを食う

 山口 まず第16章、独ソ戦の前ですが、不破さんは、ヒトラーが日独伊三国同盟にソ連を加える提案をしたベルリン会談(40年11月)から独ソ戦開始までの時期を重視していますね。

 スターリンは、「ドイツが攻撃してくる」という情報をすべて無視します。東京にいたソ連の諜報(ちょうほう)員ゾルゲ、イギリスの首相チャーチル、最後には中国から日にちまで指定した情報がくるのに問題にしなかった。

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(写真)不破哲三・党社会科学研究所所長

 不破 この時期のスターリンの態度は、実はこれまで謎とされてきました。ドイツの戦争が迫っていることを、スターリンが承知していたと見る文献もありました。

 ところが、6月22日のドイツの対ソ攻撃は、スターリンにとってはまったくの不意打ちでした。その決定的な証言は、『ジューコフ元帥回想録』にあります。ジューコフはソ連の参謀総長で、開戦前夜にスターリンと同じ場所にいました。

 それによれば、スターリンは、国境の部隊から「ドイツ軍の攻撃が始まった」という報告が次々飛び込んできても、戦争開始の事態をのみ込めず、「対応は反撃にとどめよ」「真相を確かめよ」といった指示しか出さない。明け方、ドイツ大使が宣戦布告文をもってくるまでこの態度を変えませんでした。

 石川 歴史の本でも、この時期のソ連の態度の評価はあいまいですね。

 不破 これまでの歴史書の多くでは、ベルリン会談でヒトラーが世界の再分割をエサに三国同盟へのソ連加盟という提案を持ちだし、スターリンがそれを受諾したという事実の重みが見落とされてきたのですよ。

ドイツへの配慮がソ連外交の優先課題に

 不破 実際、ベルリン会談以後は、あらゆる問題でドイツへの配慮がソ連外交の優先課題になってきます。まず激変したのが、対バルカン政策です。

 ベルリン会談の前には、ヒトラーがバルカン半島で勢力拡張の動きをすると、スターリンはいつもモロトフ首相(当時)に抗議や警告の態度をとらせたものでした。

 ところが、ベルリン会談以後は、ドイツ軍がブルガリアに入っても文句を言わず、現地の共産党に闘争の指示もしない。ドイツ軍がルーマニアに進出しても、その理由は何かと質問はするが、ベルリン会談での説明の通りバルカン方面での対イギリス作戦のためだと説明されると、そのまま了解してしまう。

 41年3月にユーゴスラヴィアでクーデターが起きた時の対応はもっとひどいものでした。新政府が親独・親ソの両面政策からソ連との友好条約を提案してきたので、喜んで条約を結ぶのですが、その数時間後にドイツ軍がユーゴスラヴィア攻撃を開始。ソ連はあわてて条約を取り消し、モスクワにあったユーゴ大使館まで閉鎖してしまう。こんな調子の露骨な譲歩外交でした。

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(写真)石川康宏・神戸女学院大学教授

 石川 なるほど。

 不破 この時期、ドイツとの同盟を実らせることが大目的だったと見ると、ふに落ちる話がいろいろあるんですよ。一つは、41年4月の日ソ中立条約締結のいきさつです。この時、松岡―モロトフ会談が決裂に終わり、松岡外相が帰り支度をしていると、突然の電話で、スターリンが明日会談するという予想外の連絡でした。

 会談で、スターリンが、この条約は「大きな問題」への一歩になる、という。「大きな問題」とは日独伊三国同盟へのソ連の加入のことです。そのあと、帰国する松岡の見送りにスターリンが駅に出てきて、ドイツの外交官にまで愛想を振りまくのですが、これは、ドイツがユーゴに攻め込んでいる真っ最中のことでした。

突然のコミンテルン解散の指示

 不破 その次に起きたのは、松岡との会談の1週間後、スターリンがコミンテルン解散の指示を出したことです。ディミトロフは、突然の指示を受けて、解散の理屈を編み出すのに苦労することになりますが、ヒトラーと同盟して世界の再分割をめざすスターリンにとっては、その世界で革命をめざす革命党の存在など、もはや邪魔ものになったというのが、この指示の本当の動機でした。

 こうした動きは、スターリンが、ヒトラーの世界再分割計画を真に受けて、ドイツがソ連に矛先を向けてくることはないと思いこんでいたことを裏付けています。そういう目で見ると、この時期の出来事の意味が読み解けるのですね。この時期は、第2次世界大戦の外交史のなかの非常に重要な局面でした。

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(写真)山口富男・党社会科学研究所副所長

 山口 これまで部分的に語られることはありましたが、不破さんが事の経過を詳細に跡づけたことで、スターリンが完全な不意打ち状態で独ソの開戦を迎えたことがリアルに分かります。日独伊ソの四国同盟で世界を再分割するというヒトラーの謀略的構想に、スターリンが完全にのまれていたことを裏付ける有力な材料だと思います。

 不破 この時期の見方を混乱させる大もとには、ベルリン会談後にスターリンがドイツに送ったのは事実上の拒否回答だったという見方がありました。しかし拒否回答をしたのなら、スターリンはドイツを大いに警戒するはずです。真相は、多少の条件はつけたものの、まぎれもない受諾回答だったのです。スターリンは、四国同盟が実現の軌道に乗ることに確信をもっていたのですね。

 石川 そういう歴史の読み方をしたのは、不破さんが初めてですね。

百八十度の「頭の切り替え」で戦争指導に全力

 山口 話を独ソ戦に進めましょう(第17章)。独ソ戦をめぐっては、スターリンが開戦時に“意気消沈していた”とか“戦争指導では無能だった”とかいう説が影響力を持ってきました。今度の研究で不破さんは、こういう俗論を打ち破ることに力を入れています。そうしないと、スターリンの覇権主義の実相をつかみ出せないという問題意識が強くあったのではないでしょうか。

 石川 昨年、“スターリンの実像に迫る”という新書本が出版されましたが、それもスターリン“意気消沈”説でしたね。

戦時外交で攻めの姿勢

 山口 今回の第4巻で明らかにされたことはいくつもありますが、その一つが、スターリンが開戦の日、ヒトラーとの同盟路線からヒトラー・ファシズムを撃滅する路線に、すぐ頭を切り替えた経緯です。ジューコフの回想も使って描きだしています。

 不破 ジューコフは、宣戦布告の報を受けた時、スターリンが椅子に深く身を沈めて「長い苦しい沈黙」を続けた、と書いています。この「長い苦しい沈黙」の時間に百八十度の頭の切り替えをおこなったわけで、その後、軍事面でも政治面でも活発な活動を開始するのですね。ジューコフは、続く部分で、戦争指導の面でのスターリンの活動状況も詳しく書いています。

 ジューコフの『回想録』はスターリンが生きているうちに発表されましたから、筆を曲げた可能性も問題になりますが、その点を補強しているのが『ディミトロフ日記』です。ディミトロフは、開戦の朝、午前7時にクレムリンに呼び出されてスターリンの活動を見、直接の指示を受けています。『日記』には、スターリンが頭を切り替えて活動しはじめた状況が出てくるわけです。日記だから筆を曲げる必要はない。その点でも、『日記』は重要な意味をもちました。

 山口 今度の研究は一点一点の資料について、裏付けをとれるものとそうでないものを区分けして歴史のなかに位置づけています。

 不破 ソ連は、ヒトラーにモスクワ前面まで攻め込まれて危急存亡の局面を迎えます。その援助国となったのがイギリスとアメリカですが、スターリンはこれらの国との外交で、「援助をお願いします」という受け身には全然立たないのです。

 ヒトラーと現に戦っているのはソ連だけなのだから当然援助を受ける権利がある、イギリスやアメリカはヒトラーを西側から攻撃する「第二戦線」を早く開くべきだ、こういう立場で、最初から攻勢的な外交を展開しました。ばく大な援助を受けながら外交的にはリードするのです。

 その経過が、スターリンとチャーチル、ルーズベルトなど英米首脳との900通の往復書簡によく出ています。第2次世界大戦史では、チャーチルの『第二次大戦回顧録』と『米英ソ秘密外交書簡』の研究は不可欠ですね。

 開戦後のスターリンは、開戦前と違って、党と政府・軍の最高責任者としてあらゆる活動の前面に出てきます。5回の首脳会談を取り仕切り、文字通り全権をもった指導者として、ソ連国民と世界の前に姿を現しました。

戦争指導に現れた専制主義と覇権主義

 石川 不破さんはスターリン無能説を批判したうえで、スターリンの戦争指導の本当の問題点を指摘しています。戦争にもテロ方式を広く持ちこんで、失敗した将軍を銃殺するとか、捕虜になって脱走してきた者や敵の包囲網から脱出してきた者まで収容所に入れる、ドイツの占領下におかれた地域の住民を強制移住させる懲罰措置をとるなど、ひどいものですね。

 不破 戦争のやり方も専制主義なんです。最初に処分されたのは国境戦で敗北した将軍たちでしたが、その敗北の最大の責任はスターリンにあったのですから。それを罪だというなら、スターリンは自分を処刑すべきでした。

 山口 最大の問題は、スターリンが第2次世界大戦へのソ連の参加を、領土拡大という覇権主義の野望と結びつけたことだと指摘していますね。

 スターリンは、ドイツとの同盟路線から反ファシズム路線に切り替えるなかでも、各国共産党の闘争をソ連防衛戦争の応援団扱いしたり、各国共産党に社会主義や革命は問題にするなと指示したり、開戦の最初の日からソ連第一主義の態度をあらわにしています。

 不破 世界史的な意味では、ソ連がヒトラー打倒の主力軍の役割を担い、それを果たしたことは、確かです。しかしその担い方は、戦争の手法では専制主義を、対外的には覇権主義、領土拡張主義を露骨に現したものだった。その点をよく見る必要があると思います。

 (つづく)


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