「しんぶん赤旗」
日本共産党
メール

申し込み記者募集・見学会主張とコラム電話相談キーワードPRグッズ
日本共産党しんぶん赤旗前頁に戻る

2015年1月13日(火)

2015 とくほう・特報

戦後70年 沖縄戦・「集団自決」の真実

“日本軍が住民に強制”

生き延びた吉川さん 若い世代に語り伝える

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 mixiチェック

 それは、どこにでもある雑木林のなかにありました。沖縄戦の渡嘉敷(とかしき)村「集団自決」(強制集団死)の現場です。隣り合わせのように日本軍の壕(ごう)跡があります。「歩き回るのはいい気持ちではないが、大切な平和学習の場です。平和・観光の島として発信するため、70年前の歴史の真実を語り続けなくてはいけない」。自決場を体験し、平和学習の講師を続ける元渡嘉敷村教育委員会委員長の吉川嘉勝さんの決意です。 (阿部活士)


図

渡嘉敷村

 慶良間(けらま)諸島・渡嘉敷島北部の北山。冬休みを利用して東京からバイクできたと話す1人の大学生が、この雑木林を歩いてきました。大学生は、「集団自決が軍の命令だったのか自発的なものだったのか。自分の目でみて、肌で感じたかった」と話します。

 「1人で、感心だね。直接的な命令があったかどうかはでなく、軍によって集められたんだよ」

 吉川さんは若者の突然の訪問に喜び、語り始めました。

 ―米軍が港から上陸する。爆撃も始める。私の家族は家の近くに掘った防空壕をわざわざ捨てて雨のなか3キロも歩いたよ。自分たち(軍)は壕にいて、私たちは野ざらしのここよ。地元の者とすると怒りを禁じえない。

 「日本軍がいたところしか『集団自決』が起きていない。なぜか考える必要がある。レ隊って知っているか」

 「えっ、知りません。教えてください」。大学生は身を乗り出しました。

写真

(写真)日本軍の避難壕跡地で大学生に説明する吉川さん

夜中、姉に手を引かれて

 日本軍が渡嘉敷村に来たのは1944年9月。「海上特攻隊」(赤松隊)です。通称レ隊(マルレ)は、ベニヤ板でつくった1人乗り特攻艇に爆雷を搭載し、敵艦に体当たりして撃沈させるとしたもの。「軍官民共生共死」との考えのもと、出撃する“秘密基地”建設という穴掘りに島の住民を駆り出しました。

 米軍は45年3月23日から艦砲射撃を繰り返し27日に島に上陸しました。赤松隊は特攻艇を一隻も出撃させずに沈めて、北山につくった陣地に隠れました。

 軍と連絡調整する駐在巡査が、現地召集の防衛隊員と役場職員を通じて住民に北山への集合を命じました。

 「日本軍が守ってくれると思ったでしょう」と吉川さん。8人きょうだいの吉川家は、日中戦争に出兵した長男と沖縄本島で勉学中の次男を除いて8人全員が北山をめざしました。末っ子の吉川さんは4月から新1年生になる直前の6歳でした。買ってもらったランドセルに帳面と筆箱を入れ、姉に手を引かれ、降りしきる雨のなかを真っ暗な川沿いに歩いたことは鮮明に覚えています。

 雑木林近くの日本軍陣地に入ろうとすると、銃剣で追い払われたと語る住民もいました。雨のなか続々と集まり、数百人の住民に膨れていたといいます。

 「兵器軍曹」が米軍上陸前に役場を通じて2発の手榴(しゅりゅう)弾を16歳以上の男子に配っていました。一発は敵を見つけた時に、一発は万が一敵に捕まる前に…というものでした。

 「日本軍の機密、秘密基地を知っている住民が敵の捕虜になれば…と誰もが推察できる。軍の安全のために住民の『玉砕』(無駄死に)が得策だった。軍の誘導、強制は明らかだ」と吉川さん。

 吉川家の場合、幸いにも兄に渡されていた手榴弾が2発とも不発でした。そのとき母親が方言で、「手榴弾を捨てなさい。逃げる準備だ、そうだ、死ぬのはいつでもできる。みんな立て。命こそ宝よ」と叫びました。

 家族全員がその場から逃げました。何家族かの人たちも続きました。逃げる途中、米軍の爆撃をうけた父親が亡くなりました。

 その場に残った人たちは、言葉を超えた悲惨な状況だったといいます。手榴弾で死に切れなかった人は、鎌や斧(おの)、石まで使ったといいます。犠牲者は、329人にのぼりました。

 「生き残った年配者が沈黙する理由を察してほしい。被害者であり、ときに身内の人たちの加害者であったのです」

 吉川さんは、大学生を日本軍が隠れた壕跡にも案内しました。

 大学生は「こんなに近くなんですか」と言葉少なく、懸命に写真を撮っていました。

 慶良間諸島の島々が一望できる高台に大学生と一緒に立って、「粟国(あぐに)島、渡名喜(となき)島、みんな日本軍がいなくて、『集団自決』がなかった島だよ」と説明します。

写真

(写真)住民を強制死に追い込んだ「集団自決」跡地で

何も語らなかった母が…

 当時6歳だった吉川さんが、どうして「集団自決」の体験を語れるのか。

 父親の命日でもある3月28日、姉たちや親類が毎年のように集まり、“あのときはああだった、こうだった”と語り合ってきたからです。ただ、戦争中に50歳を迎えようとしていた母親は、戦争について何も語りませんでした。

 ―母は山の中でどうして、ああいう行動ができたのか。

 吉川さんにとって生涯の問いでした。

 母親は、琉球伝統の神事をつかさどる神人(カミンチュ)の一人でした。あるとき、「二十歳にもならん連中(日本軍)が世の中の何がわかるか。あれたちも国の犠牲者だよ」とポツンと話したことがありました。吉川さんは、戦争を語らなかった年配の人たちの隠れた共通の思いだと感じています。

市民をも巻き込む戦争

写真

(写真)1年のときの通信簿。白い紙に鉛筆で線を引いた手作りです

 吉川さんは、小・中・高の生徒や大学のゼミ、渡嘉敷を訪れる韓国、中国からのグループなど、平和講演を年間30回以上引き受けます。

 題材のひとつが、小学生時代の通信簿です。1年生の通信簿は、薄い白紙に鉛筆で線を引いた墨の手書きです。校長の印が押されたガリ版印刷の通信簿は、4年生からでした。「戦争が終わったからといって一気に平穏になるわけではない。成績表をパソコンで入力する時代になって、平和っていいなあ、とつくづく思う」

 戦後70年のことしの抱負は―。

 「もう後期高齢者だし、講演は健康と相談だね。島ライフとしてエンジョイしている家庭菜園も海釣りも減るかな」とちょっと困った笑顔を見せながら、次のように結びました。

 「戦争とは市民を巻き込み、被害者だけでなくときに加害者にもなりうると知ってほしい。歴史の真実を学び、戦争につながることに反対することを若い世代に期待しますね」


見本紙 購読 ページの上にもどる
日本共産党 (c)日本共産党中央委員会 ご利用にあたって