2014年11月1日(土)
2014 とくほう・特報
日本の侵略戦争
■第5回■ アジア・太平洋戦争開戦への道
領土拡張の野望と破綻
1941年12月8日未明、日本陸軍がイギリス領マレー半島に上陸、その約1時間後、日本海軍がアメリカ・ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけました。中国大陸への侵略を続けてきた日本が、東南アジア全域と太平洋地域に向けて侵略的野望を発動した“瞬間”でした。シリーズ第5回は、国内外におびただしい犠牲と被害をもたらしたアジア・太平洋戦争への道です。 (宮澤毅)
日中戦争からの連続
日本が米英などとの開戦に踏み切ったのは、日本の中国侵略戦争の行き詰まりと、それをさらなる対外領土拡張で打開しようとする危険な野望が重なり合ったものでした。
37年からの日中全面戦争は中国の激しい抵抗で長期化していました。39年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が勃発。オランダ、フランスなどに勝利しイギリスに迫る勢いのドイツに日本は「幻惑」されます。
40年に入り、日本は「新たな領土拡張」計画を国策として練り上げます。ドイツ・イタリアと結び、石油資源などがある東南アジアにある欧米諸国の植民地を「生存圏」(40年9月、大本営政府連絡会議の決定など)として確保する―。
この直後の北部フランス領インドシナ(現在のベトナム北部)進駐、それに続く日独伊三国同盟の締結は、武力による「南進路線」と、日独伊による「世界再分割」の危険な具体化だったのです。
対米英関係は急激に悪化します。41年からの日米交渉では、武力進出路線を変えようとしない日本にたいしアメリカは制裁措置を次第に強めます。侵略戦争を美化する靖国神社の軍事博物館・遊就館は、この交渉過程を「平和を模索する日本」(『遊就館図録』)などと、日本がまるでアメリカの「対日制裁の強化」で戦争に追い込まれたかのように描き出しています。
「日米関係だけを意図的に切り離して論じている点に根本的な誤りがあります。日本の中国侵略との関係を言わない。事実を矮小(わいしょう)化した、非歴史的なとらえ方です」。一橋大学の吉田裕教授(日本近現代史)の指摘です。
「日米交渉の核心は、日本の中国からの撤兵問題です。しかし、東条英機陸相は『撤兵問題は心臓だ』などとして、譲れば中国だけでなく朝鮮支配までも危うくすると強硬に主張した。妥協の姿勢はありませんでした」
日米交渉さなかの7月末、日本は南部フランス領インドシナにも兵を進め、南進の基地を確保します。アメリカは日本への石油輸出全面禁止に踏み切ります。日本では「このままではジリ貧になる」と早期開戦論が勢いを増し「自存自衛」論が台頭します。軍事力による資源獲得のための対米英戦へ向け大きく舵(かじ)をきったのです。
ハル・ノートを口実に
対米英開戦は41年7〜12月にかけて開かれた、天皇出席による4回の「御前会議」を通じて決定されていきます。7月2日は「対英米戦を辞せず」と確認。続く9月6日に「10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と踏み込みます。
「決定的なのは11月5日の御前会議です。12月上旬の開戦が確定されたのです。『武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す』と明記しました。陸海軍の準備は加速します。引き続き『外交交渉』は行うとはしたものの、その目的は日本の開戦決意を悟られないようにするための『欺へん外交』でした。あの戦争を『自衛』と言いたい人たちは12月1日の御前会議を最終決定と強調しますが、形式的決定でしかありません」(吉田教授)。
遊就館などが「12月1日」にこだわるのは、11月26日にハル米国務長官から「半年間の交渉を無意味にするような最強硬案(『ハル・ノート』)」を示された日本が「開戦やむなし」となったとするストーリーを崩したくないからです。
しかし、ハル・ノートはあくまで米政府の「試案」であり、「最後通牒(つうちょう)」ではありません。その内容も、中国からの撤兵とともに、国の領土・主権の尊重や内政不干渉など当時の国際的な世論を一定反映したものでした。ハル・ノートに反発した日本の姿勢は、中国侵略と南進政策が、いかに世界の流れに逆らっているかを際立たせています。
ハル・ノートが日本に示された26日、日本海軍の機動部隊はすでに真珠湾攻撃のためにひそかに停泊地(択捉(えとろふ)島)を出港していたのでした。
虚構の「大東亜共栄圏」
「日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることなく…」。遊就館は、こう述べ日本の戦争が第2次大戦後のアジア諸国の独立を早めたかのように主張します。
「歴史の正確な記述ではありません。日本による旧宗主国打倒や占領統治がこれらの国の独立の必須条件ではなかったからです。第1次大戦直後から独立の動きは始まっていました」。慶応大学の倉沢愛子名誉教授(東南アジア社会史)はこう語ります。
開戦直前の41年11月に大本営政府連絡会議が決めた「南方占領地行政実施要領」は東南アジアを軍政下に置く目的を「重要国防資源の急速獲得」などとし、むしろ独立運動などは「誘発せしむることを避くる」などと明記しました。
米英軍の反撃が本格化してきた43年11月、対日協力を得る狙いで「満州国」をはじめ、フィリピンやビルマなどの代表を東京に招き「大東亜会議」を開いて、「自主独立の尊重」などを掲げます。しかし、同年5月の御前会議で決めた「大東亜政略要綱」は次のように明記しました。
「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発並びに民心の把握に努む」。重要資源をおさえる日本の本心は不動でした。
「大東亜共栄圏」で日本が行った資源・食糧などの収奪強化は、それまでの現地の生産や流通体制の仕組みを崩壊させ、食糧がいきわたらず、ベトナムで200万人など各地で多くの餓死者も生む事態を引き起こしました。インドネシアで詳細な調査を実施した倉沢名誉教授はいいます。
「コメ増産を要求しながら、働き手を『ロームシャ』として強制的に動員する。日本の占領は耐え難い矛盾と犠牲を強いたのです。戦後しばらく生産が回復せず深い傷を残しました」「善意で独立の助けをした個々の日本人はいました。しかし日本国家の意思は違いました。都合のいい事実だけつなぎ合わせても真実にはなりません」
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第1回8月2日付、第2回23日付、第3回9月23日付、第4回10月1日付に掲載。
(このシリーズおわり)