2014年9月23日(火)
2014 とくほう・特報
日本の侵略戦争
■第3回■ 「韓国併合」と植民地支配 (上)
独立奪った日本軍の大弾圧
1910年8月22日、「韓国併合に関する条約」によって、日本は韓国から主権国としてのいっさいの統治権を奪い、朝鮮半島の植民地支配を成立させました。明治政府が「帝国百年の長計」(別項)として狙ってきたものです。長い歴史と文化をもち、民族的誇りを培ってきた隣国の独立を軍事力で奪った歴史的暴挙でした。韓国では併合ではなく「強占」と呼ばれています。(山沢 猛)
日清戦争(1894〜95年)のときから朝鮮支配を狙っていた日本は、日露戦争(1904〜05年)で、こんどこそロシアを追い出して韓国を手中におさめようとしました。
これにたいして韓国は、日本による王宮占領や王妃殺害などの暴虐によって辛酸をなめさせられていたため、日露戦争がはじまる直前に「局外中立」を宣言しました。
「帝国百年」の野望
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日本近代史が専門の中塚明氏(奈良女子大名誉教授)はいいます。「韓国政府はフランス領事らの協力で、戦時局外中立宣言を電報で世界に届け、この戦争(日露戦争)にはかかわらないという態度をとりました。中立となると日本は韓国で自由に軍隊を動かすことができなくなる。そこで日本は、日露戦争開戦と同時に、首都・漢城(ソウル)を占拠して、日本が政治全般の『忠告』をする『日韓議定書』を強要した。こうして朝鮮半島が日本軍の占領下に置かれたのです」
併合に先立ってやったもう一つは、韓国の植民地化に向けた段取りをすすめたことでした。日露戦争後には「第2次協約」(05年)=韓国「保護条約」をおしつけて外交権を完全にとりあげ、韓国が独自に諸外国と条約を結ぶことを禁じました(協約第2条)。日本政府の出先機関である「統監府」を首都を見下ろす南山におきました。
この「保護条約」の締結にあたっては、枢密院議長だった伊藤博文が特派全権大使となって出向きました。韓国政府は自国の植民地化を必然化させるとして受け入れをためらいましたが、伊藤は日本軍の憲兵を引き連れて閣議にのりこみ、「あまりに駄々をこねるようならや(殺)ってしまえ」と大声で脅しつけながら、強盗的なやり方で従属国化をはかりました。
韓国ではこの条約を「乙巳(いつし)条約」とよび民族屈辱の象徴となりました。
日本では戦後になっても、「これ(併合条約)は両者の完全な意思、平等の立場において締結された」(佐藤栄作首相の1965年国会答弁)などという見解が根強くあります。
中塚氏はこの問題について次のように話します。
「対等平等などというのは作り話です。併合前からの日本軍の占領が、その後も継続されたというのが実態です。初代の朝鮮総督となった現職の陸軍大臣・寺内正毅(まさたけ)は条約締結のときに反乱が起きないよう、東北・仙台の第二師団を動員して厳戒態勢のなかで条約を結びました」
さらに「皇帝・高宗(コジョン)は日清戦争開戦のとき王宮(景福宮)を占領されて、翌年には日本公使の指揮で王妃(明成皇后、閔妃=ミンピ)を殺されるという目にあっているのに、統治権をすべて日本に譲りますなどと自分からいうはずがありません」と指摘します。
〈小早川、加藤、小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ〉
朝鮮総督・寺内が「韓国併合」の祝宴で得意満面で詠んだ歌です。
16世紀末、豊臣秀吉が起こした朝鮮侵略戦争の主力となり、朝鮮の人びとの耳や鼻をそぎおとしたり捕まえて奴隷にしたりするなど残虐のかぎりをつくしながら、最後には敗れて引き揚げた小早川隆景、加藤清正、小西行長らの武将たち。彼らがもし、きょうのこの月をどう見ただろうか、きっと喜んで見てくれただろう、という自画自賛の歌です。ここに当時の明治政府の首脳たちの意識を見ることができます。(吉岡吉典『「韓国併合」100年と日本』、新日本出版社)
東学農民革命と義兵
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日本の韓国侵略は、韓国に広がった民衆運動の高揚と、それにたいし牙をむいた軍国日本による弾圧・せん滅の戦争の歴史でした。
まず1894年に起きた東学農民革命(甲午農民戦争)です。当時の朝鮮で、官吏の腐敗と重税に反対して農民革命運動がおこります。鎮圧に向かった政府軍を破り、地方の中心都市(全州)を農民軍が占領するほどの力をもちます。その後、王宮占領をはじめとした日本軍の侵攻にたいして抗日の旗印を鮮明にした運動になりました。
この農民運動は以前「東学党の乱」などとよばれていましたが、現在、韓国では最初の民主革命運動であり、反帝反封建の先駆的運動だったという歴史の見直しが定着しています。(2001年東学農民革命107年記念大会への金大中大統領メッセージ)
これにたいし日本は韓国政府から頼まれてもいないのに派兵し、農民軍の大殺りくをおこないました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫るといわれています。
この農民軍のせん滅作戦に従軍した兵士の「陣中日誌」に、井上勝生氏(北海道大学名誉教授)が、徳島県の郷土史家の協力で出会いました。
「本日(1895年1月31日)、東徒の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを突き殺せり、見物せし韓人及び統営兵(朝鮮の政府軍兵士)等、驚愕最も甚だし」。日中戦争で多発した、捕虜を銃剣でいっせいに突き殺すという事例は日清戦争ですでに始まっていたのです。(中塚明・井上勝生・朴孟洙著『東学農民戦争と日本』高文研)
1906〜11年には「抗日義兵闘争」が起こります。上部階級出身者やキリスト教徒、解散させられた韓国軍隊の兵士などからなる武装闘争でした。これにたいする日本の「鎮圧」戦争で4万人といわれる人びとを殺し韓国を血の海に沈め、「併合」を行いました。
こうした抗日のたたかいは押さえつけることができず、「併合」後も「三・一独立運動」などに引き継がれます。
(下につづく)
「帝国百年の長計」 明治政府の閣議決定
(1909年7月6日)
韓国を併合しこれを帝国版図の一部となすは、わが実力を確立するための最確実なる方法たり。帝国が内外の形成に照らし適当の時期において断然併合を実行し、半島を名実ともにわが統治の下に置き、諸外国との条約関係を消滅せしむるは帝国百年の長計なりとす(一部現代文に)