2014年8月23日(土)
2014 とくほう・特報
日本の侵略戦争
■第2回■ 中国全面侵略への拡大
「一撃で中国屈服」の思惑で
中国東北部を侵略(「満州事変」)し、日本が操る傀儡(かいらい)国家「満州国」を建設した日本は1937年7月、中国への全面侵略戦争を開始しました。日本の過去の植民地支配と侵略戦争を美化するセンターとなっている靖国神社の軍事博物館・遊就館(ゆうしゅうかん)が、この経過をどうゆがめているかを検証しながら、歴史の事実を見てみましょう。
(入沢隆文)
盧溝橋事件 1937年7月
現地の停戦協定を無視
日本の中国全面侵略の発端となったのが、1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で夜間演習をしていた日本軍が中国軍と衝突した盧溝橋事件です。
遊就館は事件を次のように描いています。
「昭和八年の塘沽(たんくう)協定で安定を見た日中関係は、現地日本軍の北支(ほくし)工作とコミンテルン指導下の中国共産党による抗日テロの激化により、再び悪化した」「盧溝橋の日本軍に対する中国側の銃撃という小さな事件が北支那全域を戦場とする北支事変となった背景には、このような中国側の反日機運があった」(『遊就館図録』。以下同)
歴史の事実を見てみましょう。
「満州国」を建設した日本は1933年5月、中国と塘沽停戦協定を結んだものの、その直後から、「満州国」に隣接する華北を中国の国民政府の影響下から分離して「第二の満州国」にしようとする華北分離工作を進めました。「北支工作」とはこのことです。
これに対し中国国内では抗日の機運が高まりました。36年12月には、抗日よりも中国共産党との対決を重視する蒋介石を東北地方の実力者・張学良が監禁して、内戦の停止を要求する西安事件が発生。蒋は張の要求を受け入れ、国民党と中国共産党は抗日民族統一戦線の結成に向けて動き出しました。
一方、日本は、1900年の義和団(ぎわだん)事件で手に入れた北京・天津などでの駐兵権をたてに、北京周辺での兵力を一方的に増強。日中間の緊張が高まる中で、日本軍が中国軍の眼前で夜間演習を強行し、偶発的に起きたのが盧溝橋事件でした。
遊就館の説明は、華北を勢力下に置こうとする日本の侵略的野望と、それに抗する中国の運動を同列に並べ、後者に責任があるかのような侵略者側の言い分にほかなりません。
盧溝橋事件では31年の柳条湖(りゅうじょうこ)事件とは違い、現地日本軍は偶発的な衝突として解決する方針で中国側と交渉し、7月11日には停戦協定が調印されました。
ところが、「中国は一撃で屈服する」と考えた陸軍中央は10日、約10万人の大兵力の華北派遣を決定。近衛内閣も11日、「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑(うたがい)の余地なし」と断定し派兵を承認しました。これは事件を中国全面侵略の転機にしようという日本政府・軍部の野望をあらわにしたものでした。
当時の日本軍の動きについて山田朗明治大学教授は「『満州事変』の成功体験が強く生きていた」と指摘します。「満州を切り取ったように軍事衝突を利用して華北も切り取れないかと華北侵略を決行した。成功体験にこだわって、それをやるごとに中国との対立が深まり、世界との対立につながっていくことに気がつかなかった」
第二次上海事変 1937年8月
和平閉ざし戦火広げる
華北での日本の新たな侵略は、中国全土で激しい抗日運動を引き起こしました。その中で1937年8月13日、上海で日本軍と中国軍が衝突しました。第二次上海事変です。
遊就館は、「中国側の挑発による第二次上海事変以降、蒋介石は、広大な国土全域を戦場として日本軍を疲弊させる戦略を択(えら)び、大東亜戦争終戦まで八年間を戦」ったと説明します。しかしこれは、侵略拡大の責任を侵略された側に押し付ける卑劣な論法です。
両軍の衝突の一つの原因となった「大山中尉殺害事件」(1937年8月9日)も、最近の研究(笠原十九司・都留文科大学名誉教授「大山事件の真相」)では日本海軍の「謀略」によるものという見方が出されています。近衛内閣は15日、南京政府断固庸懲(ようちょう)(こらしめる)の声明を発表。17日には、それまで建前としてきた「不拡大方針」を放棄しました。
上海を攻略した日本軍は、功名心に駆られた松井石根(いわね)中支那方面軍司令官らの独断で南京に向けて進撃(大本営も追認)、12月南京を占領し、大虐殺事件を起こしました。
この時期、日本側の依頼でドイツを仲介者とする和平交渉がもたれましたが、南京が陥落すると日本は講和条件をつり上げたため、交渉は決裂。近衛内閣は38年1月16日、「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と声明し、外交交渉の道を自ら閉ざしました。
日本軍は蒋介石政権の軍事的屈服をめざして侵略を拡大し、長期戦の泥沼にはまり込んでいったのでした。
南京事件 1937年12月
日本兵の記録に明らかな虐殺
日本軍は37年12月13日、南京を占領し、その過程で中国軍民に対する虐殺事件を引き起こしました。『南京事件』などの著作がある笠原氏は「十数万以上、それも20万近いかそれ以上の中国軍民が犠牲になったと推測される」と指摘します。
ところが遊就館は南京事件について、松井司令官は「『厳正な軍規、不法行為の絶無』を示達した」が、「敗れた中国軍将兵は退路の下関(しゃーかん)に殺到して殲滅(せんめつ)された。市内では私服に着がえて便衣隊(べんいたい)となった敗残兵の摘発が厳しく行われた」と書くだけです。
これについて笠原氏は、「日本政府は南京事件を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決を受け入れ、外務省ホームページも『日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない』としている。遊就館の記述は日本政府の見解にも反し、国際的にまったく通用しない」と語ります。
南京攻略目前、松井司令官が、軍規風紀の厳粛などを部隊に下達したことは事実ですが、それはまったく空文化していました。
上海で3カ月余の激戦で疲弊し、食料などの補給もないまま南京に進撃させられた日本軍は、戦時国際法も教えられず略奪・暴行・虐殺・放火を日常とする中で南京に突入していったのでした。その責任は松井司令官らにありました。
南京で捕虜や非戦闘員の大規模な殺害が行われたことは、現場にいた日本の将兵の証言や日記に明らかです。
旧陸軍の親睦団体・偕行社の編集した『南京戦史』にも、「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる」「後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈(だけ)にて処理せしもの約一万五千」(中島今朝吾中将の12月13日付日記)などと捕虜を組織的に殺害した記録が収録されています。
南京事件は直ちに世界に報道され、やがて陸軍中央でもひそかに問題にされるようになり、松井司令官は38年2月に解任。敗戦後、東京裁判で南京事件の責任を問われ、絞首刑に処せられました。
|