2014年7月8日(火)
日本軍中国侵略 盧溝橋事件77年
日中全面戦争の発端に
政府が「北支急派」を閣議決定
77年前の1937年7月7日、中国の北京近郊の盧溝橋(ろこうきょう)付近で、駐留日本軍の「夜間演習」のさい、中国の国民党軍との間に起きた軍事衝突を盧溝橋事件といいます。その後8年にわたる日中全面戦争の発端になりました。
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盧溝橋事件は、北京近郊という中国の中心部で、中国の中止要請・抗議を受けていた夜間演習を強行、そこで何者かが日本軍に発砲したとして起きた事件でした。北京近くに約5000人もの軍隊を送り軍事的緊張をつくりながら、部分的な衝突があったことを理由に全面戦争にのりだしたのです。
当時、日本は朝鮮半島の植民地支配につづき、1931年に中国東北部への侵略を開始、翌年にはかいらい国「満州国」をつくりました。領土拡張の次の目標は「華北」から内モンゴルにかけての一帯でした。華北とは北京、天津などの中心都市がある中国の心臓部でした。日本軍はこの地域を「自治政府」の名目で自分の息のかかった地方政権にすることをくわだてました。「華北分離工作」といわれるものです。
侵略戦争を美化する「靖国派」は背景に「抗日テロの激化」「中国側の反日機運」があったなどといいますが、実態は逆で、中国のせいにするのは強盗的な侵略者側の言い分にほかなりません。
なぜそこに日本軍がいたのか。1900年に起きた義和団事件(北清事変)という民族運動を押さえるために帝国主義列強が軍隊を派遣。その結果、中国に認めさせた議定書で日本などが駐兵権を手に入れました。しかし日本は、きわめて限定的だったこの駐兵権をたてに北京周辺での兵力を一方的に増強、侵略の足場にしようとしました。議定書の関係国でこうした目的で増強を企てたのは日本以外ありませんでした。
この事件を絶好のチャンスにしようとしたのが、日本政府です。
その6年前の「満州事変」とはことなり、現地の日本軍は偶然的なトラブルとして解決する方針で中国側と交渉、数日後には「停戦協定」が調印されました。これで事態は収まるはずでした。
ところが、当時の近衛文麿内閣は7月11日に「北支に急派する」と閣議決定し、同日の声明で「今次事件は、まったく支那(中国)側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」と断定し、「北支派兵」を内外に発表しました。これは日本政府・軍部の侵略的野望をあからさまに表明したものでした。
7月下旬には、朝鮮半島駐留の朝鮮軍、「満州国」の関東軍の部隊が続々と華北地方に侵攻して占領。8月には日本から陸軍3個師団が華北に上陸、中旬には上海にも戦線を拡大しました。そして12月、当時の首都であった南京を占領したさい捕虜・民間人などの大虐殺事件、南京大虐殺を引き起こしたのです。(山沢 猛)