2014年4月5日(土)
集団的自衛権
「限定容認」のごまかし
自民党が始めた集団的自衛権行使容認の議論で、高村正彦副総裁などが、行使は「限定される」などと主張し党内をまとめようとしています。「限定容認」論には大きなゴマカシがあります。
小さく見せる仕掛け
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「限定容認」の狙いは何か―。安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が当初主張していた集団的自衛権行使は、フリーハンドで容認する「包括的容認論」でした。「限定容認」なら抑制的だというイメージづくりです。
しかし、日本に対する攻撃がないのに、他国を防衛するための集団的自衛権の行使は許されないとしてきた政府解釈を、180度転換することになんら変わりありません。
もう一つ重大なゴマカシは、「日本の存立に影響のある場合」「日本の安全に重要な影響のある場合」などの説明をつけることで、あたかも“自国の防衛”(自衛権)の一類型だという印象を与えるという狙いです。
しかし、そもそも集団的自衛権は「自衛」とは無縁であり、他国防衛と軍事同盟の権利であることに本質があります。自民党と同じく集団的自衛権行使問題の議論を始めた公明党の山口那津男代表も「政府解釈で必要最小限と言ってきたが、(自衛権で)一番大事なのは、わが国への急迫不正の侵害があるというところ」(2日のBS番組)として、「他国防衛」である集団的自衛権を行使できないとしてきた政府解釈との矛盾を指摘しています。
「限定」という名の無限定
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言葉でいくら「限定される」といっても、いったん集団的自衛権行使を容認すれば、自衛隊が地球の裏側まで行くのも可能となります。
高村氏は講演で、「日本の存立に必要最小限度」であることなどを条件にあげました。「日本の安全に大きな影響を与える場合」などという“基準”も安保法制懇メンバーが主張しています。しかし、それにあたるかどうかは、政治的判断になります。そもそも「重要な影響」がどのような範囲なのか自体が、まったく不明確です。
しかもその判断をするのは内閣です。秘密保護法で行政機関が秘密指定を自由にできるのと同じく、内閣が政治的判断で行動の限界を決める―。憲法による政府の行動規制は完全に骨抜きになるのです。
領海内と公海に限定するという議論も出ていますが、公明党の山口代表は「公海上というだけでどこが限定されているのか」(2日、同前)と疑問を出し、同党幹部から「自民党は憲法解釈変更ありきだ」と批判が出ています。
国民世論の批判も強まっています。共同通信の世論調査(3月22、23日実施)では、集団的自衛権の行使解禁に「反対」が57・7%に増加。「産経」1日付の世論調査では、憲法改正について「反対」47・0%、「賛成」38・8%となり、昨年4月以降はじめて反対が賛成を逆転。国民の安倍内閣の右翼改憲路線への警戒感が増大していることを示しました。
「毎日」3月31日付夕刊では改憲派で集団的自衛権行使への解釈改憲にも賛意を表明する五百旗頭真(いおきべまこと)前防衛大学校校長が「解釈変更を安倍内閣に任せてよいのか、疑問を抱かざるをえません」と発言。「安倍首相は未来志向ではなく、『過去志向』です。日本の過去の戦争を正当化したいという思いが強すぎて、日本の安全と国益を失いかねない」と批判しています。
「自衛権」の名に値せず
―砂川判決持ち出すが
高村氏は、1959年の最高裁砂川事件判決に「固有の自衛権」という文言があることを持ち出して、解釈変更を合理化しましたが、これもまったくのゴマカシです。
そもそも同事件で争われたのは、集団的自衛権の是非ではなく、安保条約に基づく駐留米軍の合憲性です。しかも判決では、高度の政治的性格を持つ問題であるとして、「司法審査には原則としてなじまない」と正面からの判断を避けたのです。
「主権国として持つ固有の自衛権」に言及してはいますが、時代状況からいっても、自衛隊と個別的自衛権の合憲性が争われ、米軍への基地提供が問われていた時代で、集団的自衛権は焦点にはなっていませんでした。判決を容認の「根拠」とすることは暴論です。
実際、判決直後にも岸信介首相(当時)が、「密接な関係にある国が武力攻撃をされた場合に、その国まで出かけて行ってその国を防衛する集団的自衛権は、日本の憲法上は、日本は持っていない」(1960年3月31日、参院予算委)と答弁しており、その後集団的自衛権の行使は憲法上許されないという政府解釈が確立したのです。
砂川判決以降、50年以上、集団的自衛権の行使を否定してきたのに、いまになって、「実はここに根拠があった」などといってもまったく通りません。