2013年6月23日(日)
社会リポート
沖縄 旧日本軍司令部など地下壕跡
大量の避妊具出土
周辺に軍専用の「慰安所」
県民の4分の1が犠牲になった沖縄戦(1945年3月20日から組織的戦闘が終結した6月23日)を主導した陸軍沖縄守備隊の32軍司令部地下壕(ごう)跡(南風原町=はえばるちょう=当時は村)などから、避妊具が大量に出土していることが本紙の取材でわかりました。こうした例は全国的にも初めてです。司令部壕などの周辺には日本軍専用の「慰安所」がありました。
南風原町が発掘
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「うむ、これは」
2005年12月から09年5月にかけて行われた同町津嘉山地区に広がる32軍司令部地下壕など旧軍施設の発掘調査を担当した南風原文化センターの学芸員、上地克哉さんは土中から姿を現した遺物に思わずつぶやきました。「避妊具(コンドーム)だ」
泥にまみれ、戦時中の米軍の火炎放射攻撃で焼かれ、すすだらけになりながら、かろうじて原形をとどめていたのです。11本の壕跡から127個が出土しました。
今年3月発行の『南風原町史9巻』は、「コンドームは医薬品と共伴して出土している。その出土状況はひとかたまりになっていることから、他の医薬品と同様、木箱に梱包(こんぽう)された状態で壕内に保管されていたと思われる」と記録、軍の支給品と見ています。
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発掘作業は、沖縄県による国道507号改良工事、南風原町による土地区画整理事業にともなう埋蔵文化財発掘調査でした。
同町には32軍司令部壕など多数の旧軍施設があり、沖縄戦では住民の4割(3505人)が地上戦に巻き込まれるなどで戦死した「戦場の村」です。
町は1990年に沖縄戦の悲惨な歴史を後世に伝えるとして南風原陸軍病院壕を全国初の戦争遺跡「文化財」に指定しています。
これら旧軍施設の周辺には3カ所の日本軍「慰安所」の存在も確認されています。慰安所は「旧日本軍直属の管理売春施設のこと」(沖縄大百科事典)。
町教育委員会の呼びかけによる南風原町沖縄戦戦災調査(88年)の報告書「津嘉山が語る沖縄戦」には慰安所の影響についてこう記しています。
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「日曜日にもなると東花城の門まで兵隊が並んでいたという。使い捨てられたサック(避妊具)を付近の子どもたちが膨らませて風船遊びをしていたため、字の役員がかけあってサックの処理をきちっとさせたこともあった」
歪曲許されない
日本軍「慰安婦」をめぐっては安倍晋三首相、橋下徹大阪市長率いる日本維新の会などが歴史的事実の歪曲(わいきょく)発言を繰り返しています。国内外からは「日本政府と軍が慰安所を設置・関与した非人道的な事実が問題」と厳しい批判が集まっています。
前出の上地さんは「(避妊具出土は)町と住民のこれまでの戦災調査で想定されていたが、司令部などの軍施設からの出土は全国でもめずらしく、軍による慰安所管理の一体性が確認できる貴重な資料だ。多くの県民の命が奪われた沖縄戦の事実を歪曲し、無かったものにすることは許されない」と話します。
避妊具などの出土品を記録した発掘調査報告書は同町教育委員会が公表しています。(山本眞直)
第32軍司令部津嘉山壕群 日本軍は1944年3月に編成された沖縄守備隊である第32軍司令部を那覇市内の養蚕試験場に建設を予定。しかし米軍の上陸が確実とし沖縄本島の要塞(ようさい)化、南風原村の津嘉山一帯の地下に司令部壕の建設を決定。糸満など県南部の住民を徴用、総延長1・5キロから2キロもの県内最大級の手掘り壕群を完成させました。しかし同年10月の大空襲で司令部中枢を首里に移動させ、経理部など後方作戦で重要な各種部隊を配備しました。