2002年11月24日(日)「しんぶん赤旗」
九月の日朝首脳会談で、拉致被害の痛ましい実態が明るみに出た後、公明党は、拉致問題を党略的に利用し、全国的に日本共産党攻撃をくりひろげてきました。十月十四日付公明新聞「記者座談会 拉致問題と左翼政党の対応」での共産党攻撃などは、それがどんなでたらめなものかを示す典型でした。
日本共産党は十月十九日付「しんぶん赤旗」で「事実ねじ曲げた公明党の党略的な攻撃に反論します」を特集して全面的に反論しました。しかし、公明新聞は十月二十九日付でまたも同様の攻撃をくりかえし、公明党・創価学会あげてこの問題で共産党攻撃に狂奔しているため、昨日付「しんぶん赤旗」の新たな特集「『反省』すべきは公明党ではないのか」で、これらにかさねて徹底的に反論しました。
道理がどちらにあるか、反省すべきがどちらであるかは、すでに明白になっています。
このなかで公明党がいま、「最後の頼り」としているのが、兵本達吉氏です。公明新聞は九日付と十二日付の上下連載で、「拉致解明を妨害した日本共産党」と題して、兵本達吉氏の「講演」なるものを大々的に掲載しました。これは、公明党の肝いりで七日に発足した与党三党国会議員有志からなる「日朝関係と人権を考える会」での「記念講演」です。
この「会」=新しい議員連盟については、「メンバーの一人は設立の狙いを『共産党対策』と説明する」(「日経」)、「公明党が共産党とのけんかに利用しているだけ」(「毎日」)などと伝えられているものです。公明党が主導して、日本共産党攻撃のための新しい日朝関係「議連」を立ち上げ、その設立総会で兵本氏を「記念講演」者にし、彼の講演を党機関紙で麗々しく報道するという構図です。
しかし、こんな「兵本氏頼み」は、公明党と公明新聞をぬけだすことのできない泥沼に引き込むだけです。
兵本氏は、公明新聞などで「元共産党国会議員秘書」と紹介されていますが、九八年八月に秘書解任になるまで、長い間、橋本敦参議院議員(二〇〇一年改選時に引退)の秘書でした。
その兵本氏が、『文芸春秋』十二月号の「手記」で「日本共産党が拉致調査を妨害した」などと攻撃したのにたいし、当の橋本前議員自身が反論しました(『文芸春秋』が掲載を拒否したため、本紙十七日付に全文掲載)。兵本氏のいうことがいかにでたらめでウソばかりかということは、この反論で明白です。
兵本氏が書き、話す内容が、それこそ「ガセネタ」でしかないことは、『文芸春秋』の一文と公明新聞掲載の「講演」の内容を比べるだけでも、鮮明です。二点だけあげておきましょう。
一つは、「日本共産党が拉致調査・拉致解明を妨害した」という中傷にかかわってです。ここでの兵本氏の主張の中心点は、九七年四月に、兵本氏が怪しげな情報にもとづいて、神戸にやってくるという北朝鮮幹部に会いに行こうとして、党に“止められた”ということでした。止めるのが当然の事柄なのですが、兵本氏は制止を振り切って神戸に行き、空振りして帰ってきました。拉致調査の「妨害」とはなんの関係もない話です。
兵本氏は、党による制止について、『文芸春秋』では、東京駅を出発しようとしていた彼の携帯電話に「不破委員長の秘書室」から呼び出しがかかったと、まことしやかにいい、ご丁寧にも「共産党では委員長が直接電話をしてくることはありえない」と注釈をつけていたのでした。ところが、『文芸春秋』発売と同時期のこの「講演」では、「不破さんから直々」に、いってはいけないといわれたなどといいかえているのです。
「秘書室」から「直々に」とコロコロと変わっていく。話全部がウソであることのなによりの証拠です。事実はただ一つ、橋本氏が明らかにしたように、兵本氏自身が東京駅から党の参議院事務局の織田優氏に電話をかけて、これから神戸に行くと通告したのにたいし、「橋本議員からもいってはいけないといわれているではないか」と織田氏にいさめられたということしかありません。
もう一つは、兵本氏を党から除名した理由についてです。その理由は、「拉致調査妨害」「拉致解明妨害」なのだと、兵本氏は主張しますが、党が、兵本氏を党から除名し、秘書を解任した理由は、一九九八年五月、彼が警視庁の警備公安警察官と二時間にわたって会食し、自分の退職後の就職の斡旋(あっせん)を頼んだという事実を重大な規律違反と認定したことです。しかも除名・解任が実行されたのは、彼の延長された定年退職期日の数日前のことです。「拉致調査」などなんの関係もありません。
この一番肝心な除名理由にかかわる事実の問題でも、兵本氏の言明は変転します。彼は、再就職のために警察官と会食したという事実を、『文芸春秋』の一文では認めていました。「私が会ったのは警察官だけではない」(実際には「警察官だけ」でしたからこれもウソなのですが、ともかく警察官はいた)、そこで「私が紹介された仕事は拉致問題を追及する政府のプロジェクトチームへの参加」だった、と。
これが、「講演」では、「当時、自民党や新進党の中に、拉致問題を調査するプロジェクトチームをつくる必要がある、との議論があったようで、私にも『退職後、手伝わないか』とのお誘いがあった」、「後でこのことが党の指導部に知れ大騒ぎとなった」などと、まったく違ったつくり話にしているのです。
『文芸春秋』の記述とも矛盾するこんな「講演」内容をでかでかと掲載して、公明党と公明新聞は、どう説明するのでしょうか。
兵本氏が、「講演」で持ち出した新しいウソについても一言しておきましょう。九七年三月二十五日の「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」結成にかかわるウソです。
「本当はこの『家族の会』も橋本敦がつくることになっていた。私は事務方として結成に動いていた。決して私の看板でやっていたわけではない。しかし、(橋本議員は)当日になって逃げてしまった。(記者会見に)出てこなかった」というものです。
家族の連絡会は、家族が自主的につくるものです。「橋本敦がつくることになっていた」とか、橋本議員が記者会見に出る計画とかが、最初からあるはずがないのです。同時に、二十七日付の「赤旗」が、この「連絡会」の結成と記者会見の模様を大きく報道しているように、日本共産党がこの会から「逃げる」理由も、まったくありませんでした。
兵本氏は「講演」で、彼の除名処分にかんして、「拉致事件で…5日間、延べ20時間にわたって査問」がおこなわれた、そこでは「肉体的な拷問やリンチはやらないが、心理的な拷問はやる」、「いったん疑われたら『はい、やりました。申し訳ありません』と言うまで、絶対にやめない」…と、さも恐ろしそうに述べています。これらも大ウソで、実際を知るものにとっては噴飯ものです。
党は、党員の規律違反行為について、関係党員やなによりもその党員本人のいい分をよく聞いたうえで、処分を決めています。当然のことです。本人から事情を聞くのは、大事な民主的手続きであり、もともと「査問」などというものはありません。
兵本氏からの聴取は三回、それも二回目は、もっと話を聞いてくれという彼の要望にそって、しかも「調査委員会のメンバーのうち国会関係者は席を外してほしい」という要望もいれておこなわれました。三回目の聴取の後、兵本氏は、“じっくり考えた上でもう一度話したい”と希望し、四回目が双方合意のうえにセットされました。ところが、その当日の朝、兵本氏は「ばかばかしくなった」といって出席拒否を電話で連絡してくるという非常識な行為に出ました。こうして、聴取は三回でおわりました。
その後、除名処分を決めるにあたって本人に弁明の機会があり、さらに処分を伝える機会がありました。このように、兵本氏の規律違反をめぐる調査は、兵本氏の要望を可能な限り受け入れておこなわれ、最後は彼自身が勝手に約束を破って調査をうち切ったのです。それを、「スターリン時代のソ連」などを引き合いに出して、本人が屈服するまで際限のない「精神的拷問」がやられたかのようにいうのですから、唖然(あぜん)とするようなウソつきぶりです。
兵本氏の発言は、このようにでたらめなものばかりです。公明新聞は、彼の「講演」なるものの上下連載に「拉致解明を妨害した日本共産党」という共通タイトルをつけています。しかし、この「講演」には、彼の自慢話と、党が彼の思惑通りにならなかったという不満話が、ウソをたっぷり交えてならべられているだけで、日本共産党が拉致事件解明を妨害したことの証明など、なに一つありません。
拉致問題にまじめに取り組んできた党を攻撃しようとするところに、もともと無理があります。党略的にそれをやろうとするゴリ押しが、いま公明党と公明新聞に、とんでもない“ガセネタ”にすがりつく、情けない、哀れな結果をもたらしているのです。(S)