日本共産党

2002年11月23日(土)「しんぶん赤旗」

北朝鮮問題

「反省」すべきは公明党ではないのか


 北朝鮮による拉致事件という重大問題を利用した、公明党の党略的な反共攻撃にたいしては、本紙10月19日付の見開き特集で、事実にそくして反論しました。これにたいして、公明新聞10月29日付が「なぜ日本共産党は過去の過ちを認めないのか 拉致、帰国事業などで見苦しい自己弁護」と題する見開き特集をのせています。そこで、「過去」の北朝鮮との関係で真に「反省」すべきはどちらの党か、あらためて事実に照らして検証しておきます。(肩書はいずれも当時)


問題は、北朝鮮が国際的な無法行為をすすめた時期にどういう立場をとったか、にある

 今回の公明新聞特集は、本紙の特集が一九七〇年代以降の公明党と北朝鮮との関係を問題にしたのにたいして、六〇年代の日本共産党と朝鮮労働党との友好関係を問題にすることで相打ちにしようとしています。

 しかし、問われているのは、それぞれの党と朝鮮労働党との友好関係がどういう時期におこなわれたかです。北朝鮮が国際的に問題になっている無法行為を犯したときに、その問題には抗議せず、「友好関係」を続けていたとすれば、それは無法への「迎合」にほかなりません。

日本共産党−−

道理があれば共同に努力
無法行為はきびしく批判

 日本共産党についていえば、北朝鮮との関係は、一九五九年二月の日本共産党代表団(宮本顕治書記長)の初訪朝以来一九六〇年代後半まで、友好関係が続いていました。この時期は、問題になるような北朝鮮による国際的無法行為があらわれていなかった時期です。朝鮮労働党も国際活動の分野では、比較的まともな態度をとっていました。

 本紙十月十九日付特集でも明らかにしたように、朝鮮労働党は、ソ連が一九六〇年代前半、日本共産党を破壊するために、ソ連追従の志賀一派を手先として乱暴な干渉をおこなったときには、この干渉に公然と反対する立場を鮮明にした数少ない党の一つでした。六六年、日本共産党の代表団が、中国、ベトナム、北朝鮮の三カ国を訪問したときも、アメリカのベトナム侵略反対の国際統一戦線を推進する点で、共通の立場を確認しました。六七年、中国で毛沢東派が「文化大革命」をとなえ、当時、北京にいた二人の日本共産党員に暴行を加えたとき、両氏の帰国のさい、迎え入れて援助したのも、朝鮮労働党でした。

 ところが北朝鮮は、六七年の終わりごろ、北から南に武力介入する「南進」のくわだてを露骨にし、六八年一月には韓国の大統領官邸のある青瓦台を「武装遊撃隊」に襲撃させました。こうした下で日本共産党は、自主独立の立場から、六八年八月〜九月、宮本顕治書記長を団長とする五人の代表団を北朝鮮に送り、「南進」の企ての危険性と有害性を率直に指摘、金日成指導部の対外政策の誤りを正す努力をつくしたのです。

 この時、金日成は、両党会談で、北朝鮮には「南進」の意図はないことを言明し、それ以後、韓国での「遊撃隊」活動も下火になって、問題は一応解決されました。しかし、この時期以後、北朝鮮の国際舞台での活動には、異常な問題が目立つようになりました。その一つが、七〇年代の初頭に始まった、金日成個人崇拝を国際的に押しつけようとする企てでした。日本共産党は、金日成個人崇拝の押しつけに反対したのをはじめ、八〇年代に入ってからのラングーン爆弾テロ事件、公海上の日本漁船銃撃事件、大韓航空機爆破テロ事件など、北朝鮮のかかわった国際的な無法行為にたいして、きびしい批判をくわえてきました。そのために、日本共産党と北朝鮮の関係は、八三年から今日まで、断絶したままです。

 拉致事件も、この時期に起きたことでした。北朝鮮とのかかわりは最初の段階では明らかでありませんでしたが、日本共産党国会議員団は、一九八八年、大韓航空機爆破事件に関連して拉致被害者の存在が問題になってきたことを契機に、各地での行方不明事件そのものの調査をおこない、北朝鮮による拉致事件という疑惑があることを明らかにして、国会で取り上げ、政府にその疑惑を認めさせました。

 このように、日本共産党は、自主独立の立場にたって、北朝鮮にたいしても、共同すべき道理のあるときには共同の態度をとり、間違いをおかせば堂々とそれを批判し、無法行為にたいしてはこれを追及する、こういう活動をすすめてきたのです。

公明党−−

金日成個人崇拝に迎合
無法行為の批判も回避

 これにたいして公明党は、北朝鮮が金日成崇拝を顕著につよめた七〇年代以降、北朝鮮との関係をつよめ、無法行為への批判もできるだけ回避する態度をとってきました。

 その出発点となったのが、竹入委員長を団長とする一九七二年の公明党訪朝団です。このときの北朝鮮との共同声明では、「公明党代表団は朝鮮人民が敬愛する金日成(キム・イルソン)首相のチュチェ思想を指針として、千里馬(チョンリマ)の勢いで駆け社会主義建設で大きな進歩をとげたことに対し祝賀した」と、金日成個人崇拝体制を礼賛しました。この共同声明はその後の公明党と北朝鮮との関係の基調となりました。

 八〇年代のラングーン爆弾テロ事件や大韓機爆破テロ事件では、事件からほぼ一年や二年たってから「批判」を口にしたり、北朝鮮の犯行をやっと認めたりといった回避ぶりです。日本漁船銃撃事件では事実上北朝鮮の立場を弁護する国会質問をおこなっています。

 拉致問題でも、公明党は日本共産党の橋本議員の質問で拉致実行犯容疑者であることが明らかになっている辛光洙をふくむ韓国大統領あて釈放要望書に公明党議員六人が署名するなど、拉致疑惑追及に逆行することまでおこなっています。

 このように公明党は、一九七二年から金日成個人崇拝に迎合し、無法行為への批判も回避してきたのです。

公明党の日本共産党非難のこっけいさ

在日朝鮮人の帰国事業への支援は「犯罪」だったか

 公明党が持ち出している日本共産党非難は、こっけいきわまるものです。

 それは、日本共産党が在日朝鮮人の「帰国事業」に協力し、北朝鮮の「犯罪」を擁護した、というものです。これほど、ばかげた非難はありません。

赤十字国際委員会の勧告で始まった帰国事業

 第一に、在日朝鮮人の帰国問題は、一九五六年に赤十字国際委員会が日本、北朝鮮、韓国の赤十字と政府に送ったよびかけの覚書から始まったもので、基本的人権と人道にかかわる問題です。

 もともと在日朝鮮人の多くは、戦前の日本の植民地時代に強制的に朝鮮半島から日本に連れてこられた人たちです。日本の敗戦によって朝鮮半島は三十八度線を境に南北に分断され、在日朝鮮人は韓国とは往来ができても、北朝鮮には行くことができませんでした。当時、韓国は軍事独裁政権下でひどい経済的混乱と圧制にあり、在日朝鮮人は帰国を見送ることを余儀なくされていました。

 朝鮮戦争後、日本政府の北朝鮮敵視政策によって、帰国がますます困難となるなかで、一九五六年には、赤十字国際委員会の帰国事業についての勧告があり、一九五八年八月には、在日朝鮮人の間で、北朝鮮への帰国運動が展開されるようになりました。九月には北朝鮮政府も受け入れを表明しました。

 日本国民も世界人権宣言の「自国に帰る権利」を支持する立場から超党派で在日朝鮮人帰国協力会を十一月十七日に結成。この会には、岩本信行・自民党衆院議員、小泉純也・自民党衆院議員(小泉首相の実父)、山本熊一・日朝協会会長、鳩山一郎元首相、浅沼稲次郎・社会党委員長、宮本顕治・日本共産党書記長なども参加していました。日本共産党も在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業を「人道上の立場」(一九五八年十一月二十三日第三回中央委員会総会での「在日朝鮮人の帰国を支持する決議」)からその実現を支援。

 こうした運動の前に、帰国事業は五九年十二月から、日本政府の了解のもと、日朝両国の赤十字が主体となって実施の運びとなったのです。

 公明党は、この帰国事業の支援活動にくわわったということで、日本共産党を「犯罪」者よばわりしようというのです。いったい、帰国事業を最初に呼びかけた赤十字国際委員会も、帰国事業の主体となった日本赤十字社も、在日朝鮮人帰国協力会に参加した、自民党の鳩山一郎氏、小泉純也氏ら多くの保守政治家なども在日朝鮮人を「凍土の地獄」へ送った“主役”だというのでしょうか。

 第二にこっけいなことは、公明新聞が、公明党や創価学会自身が、この帰国事業の賛成者であった事実を、どう説明するのでしょうか。

創価学会、公明党の帰国事業賛成をどう説明

 帰国事業が最初に問題になった一九五〇年代には、公明党はまだ生まれていませんでしたが、創価学会の幹部は、東京都議会に参加していました。そして、五八年十二月に都議会が決議した「在日朝鮮人帰国促進に関する意見書」では、当時、創価学会理事長だった小泉隆都議も提出者の一人となっていました。

 また、帰国事業がいったん打ち切られ、その再開が問題になった一九七〇年には、国会で、公明党議員が「人道的立場」から帰国事業の促進を要請する質問をおこなっています(沖本泰幸衆院議員、七〇年四月十三日、衆院運輸委、内閣委、地方行政委、法務委連合審査会)。

 公明党の言い分によれば、一九五八年に都議会で創価学会がとった行動も、一九七〇年に国会で公明党がとった行動も、すべて北朝鮮の「犯罪」に加担して、在日朝鮮人を「凍土の地獄」に送りこむ行動だということになるではありませんか。ありもしない「罪」を日本共産党になすりつけようとして、帰国事業への協力を「犯罪」呼ばわりした結果、自分で自分をぶんなぐるというこっけいなことになってしまったのです。

 今の北朝鮮と一九六〇年代の北朝鮮を同じ状態に見立てて、人道的な事業を「犯罪」扱いするようなばかげたことは、もうやめたらどうでしょうか。


金日成個人崇拝への迎合が出発点(72年)

公明新聞紙面
1972年に訪朝した公明党代表団と北朝鮮の対外文化連絡協会との共同声明を報じる公明新聞72年6月7日付

 北朝鮮では、一九七〇年代にはいると、金日成個人崇拝が顕著に強められました。それと同時に、元北朝鮮外交官・高英煥氏の証言(九二年)で明らかにされたように、七〇年代はじめごろから、金日成の指示によって“日本共産党は、マルクス・レーニン主義の道からはずれ、時代の流れに反する、国際的に受け入れられない組織になった。今後は、日本共産党との関係を清算して、日本社会党との提携に転換しなければならない”という外交方針を採用しました。

 公明党の北朝鮮訪問は、金日成個人崇拝の強まりのなかで、それに迎合しない日本共産党を排除して、社会党などをとりこもうという動きにそうかたちでおこなわれたのです。

訪問団を派遣

 公明党は七二年五〜六月、北朝鮮訪問団(団長・竹入義勝委員長)をはじめて派遣しましたが、この訪問自体が金日成礼賛への迎合を一貫した基調としたものでした。

歓迎集会で

 七二年六月二日、平壌でおこなわれた「公明党訪朝団歓迎市民集会」では、竹入委員長があいさつ。「私たちは昨夜、この国を解放し、この国を本当に廃虚の中から革命思想によって立ち上がらせた、皆さまの敬愛する金日成首相にお目にかかり、対日友好にあふれた雰囲気の中で親しく懇談することができました」とのべました(公明新聞七二年六月四日付)。

共同声明で

 さらに七二年六月六日、公明党代表団が北朝鮮の「朝鮮対外文化連絡協会」とむすんだ「共同声明」には「公明党代表団は朝鮮人民が敬愛する金日成(キム・イルソン)首相のチュチェ思想を指針として、千里馬(チョンリマ)の勢いで駆け社会主義建設で大きな進歩をとげたことに対し祝賀した」と、はっきり書かれています(七二年六月七日付)。

 公明新聞は最近の特集(十月二十九日付)で、「だいたい、公明党が『金日成の個人崇拝に迎合する共同声明』など、出すわけがない」「『朝鮮人民が敬愛する金日成首相』と、あくまでも『朝鮮人民が』とことわっている」などといっていますが、言い訳にもなっていません。金日成に「朝鮮人民が敬愛する」というまくら言葉をつけたこと自体、金日成個人崇拝への迎合そのものです。しかも「チュチェ思想」とは、金日成の言動を唯一絶対のものとし、それへの無条件服従を人民に強要する思想体系です。それを持ち上げた「共同声明」が、金日成個人崇拝への迎合以外のなにものでもないことは明白です。

 これにたいして日本共産党は、北朝鮮が金日成個人崇拝を他国に押しつける動きを顕著に強めた七二年当時、いち早く相手国の指導者の崇拝運動、指導者の誕生日などにかんする行事への協賛や礼賛などの日本へのもちこみを批判していました。


ラングーン事件(83年)
日本漁船銃撃事件(84年)にたいして

 一九八〇年代にはいると、北朝鮮は国際的な無法行為を相次いでひきおこしました。

ラングーン

 八三年十月九日、ビルマの首都ラングーンで韓国全斗煥大統領一行が爆弾テロにあい、韓国とビルマの高官二十一人が死亡しました。ビルマ政府は十一月四日、テロが北朝鮮の工作員三名のしわざだと発表。日本共産党は、その日のうちに「テロは断じて共産主義運動の態度ではない」(宮本顕治議長)と批判し、以後、一連の見解を発表しました。

 これにたいして在日本朝鮮人総連合会傘下の日本語新聞「朝鮮時報」(十一月二十八日付)は、「謀略に同調する行為」だとして日本共産党に非難をくわえました。党は、論文「『朝鮮時報』の日本共産党非難に反論する」(「赤旗」十二月八日付)を発表し、北朝鮮の司令官や参事官の氏名まで具体的にあげた供述調書を「噴飯もの」とする「朝鮮時報」の主張をきびしく批判しました。この事件以降、日本共産党と朝鮮労働党との関係は断絶しました。

「不幸な事件」というだけ(公明党委員長)

 一方、公明党は、公明新聞八三年十月十六日付「主張」で「ビルマ政府は…犯人の国籍については朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)であるか否かも含め、明確にしていない」「事件の真相は、まだ今後の捜査を待つしかないであろう」とのべていました。

 しかしその後、ラングーン地方裁判所は十二月九日、実行犯である北朝鮮の二人の軍人に死刑判決を言い渡しましたが、公明党は「不幸な事件」(八四年一月二十五日、竹入委員長)とよぶだけでした。

 事件からほぼ一年たって、公明新聞は「われわれもこれを、平和統一を妨害する有害なものとして批判したことはいうまでもない」(八四年十月二十一日付)とか「国際的な政治犯罪に対してはわれわれも強い批判を加えてきた」(八四年十一月三日付)と最初から批判していたかのようです。

図

漁船銃撃

 八四年七月二十八日、公海上で操業していた石川県のイカ釣り漁船「第36八千代丸」が北朝鮮警備艇の銃撃をうけて拿捕(だほ)され、船長が死亡しました。これは、北朝鮮が国際法を無視して一方的に設定した「軍事境界線」内に漁船が侵入したとして、銃撃・拿捕したものでした。

 日本共産党は八月三日、立木洋国際部長が「朝鮮の漁船銃撃事件は国際法上も不法行為である」と題する党見解を発表して北朝鮮を批判、「軍事境界線」の不当性を指摘しました。これにたいして朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は、日本共産党の見解を「不当ないいがかり」「内政干渉」などと中傷し、日本漁船銃撃を当然視する態度をとりました。党は、論文「人道も国際法も無視する立場の自己暴露―『労働新聞』の日本共産党攻撃にたいして」(「赤旗」八月十六日付)、「『労働新聞』の乱暴な覇権主義の論法」(同九月二十七日付)で、北朝鮮側の主張を全面的に論破しました。

国会でも日本の責任だけを追及

 一方、公明党・国民会議の和田教美参院議員は、国会質問で「(北朝鮮の)経済水域ですけれども、……現在は漁業協定が失効しておりますから、当然法律的に見ると向こうの方に分があるといいますか、そういうことだろうというふうに言われておる」とのべ、北朝鮮の無法を事実上弁護しました(八四年七月三十一日、参院外務委)。

 武田一夫衆院議員も、日朝民間漁業協定の失効後、北朝鮮当局による拿捕・銃撃事件が増えていると指摘したうえで、「軍事境界線」は不問に付したまま、「民間協定が失効している、その間の対応について、私はやはり関係漁船あるいは組合等々にしかるべききちっとした指導やあるいはまた監督、警戒の態勢を十分にやっておくべきでなかったのか」と、日本政府の責任だけを追及しています(八四年八月二日、衆院農水委)。

北朝鮮を「安定した発展」と(公明党副書記長)

 八七年十二月十五日、朝日友好促進親善協会の金寿萬書記長ら同協会代表団が公明党を訪問。公明党からは、塩出啓典副書記長(参院議員)、神崎武法副書記長・国際局長(衆院議員)らが出席して懇談しました。

 席上、塩出氏は、北朝鮮と公明党との友好関係を語った上で、「(北朝鮮が)安定した発展を遂げてきたことをうれしく思うとともに、朝鮮半島が平和的統一を果たすよう心から願っている」と強調しています(公明新聞八七年十二月十六日付)。

 公明党は、八〇年代後半、北朝鮮を「凍土の地獄」どころか、「安定した発展」と評価していたのです。


大韓航空機爆破事件(87年)
拉致問題・辛光洙事件(88・89年)にたいして

赤旗紙面
大韓機爆破事件は北朝鮮の犯行であることは明らかだと言明した宮本議長(当時)の発言(1月22日)を報じる1988年1月24日付の「赤旗」

 八七年十一月二十九日、韓国の大韓航空機がビルマ上空で、時限爆弾によって爆破されました。翌八八年一月十五日、韓国当局から、事件の実行犯は北朝鮮の秘密工作員だったという衝撃的な事実が発表され、記者会見に同席した北朝鮮工作員・金賢姫は、金正日の指示をうけて爆発物をしかけたことを具体的に証言しました。

 日本共産党の宮本顕治議長は、一月二十二日、韓国当局の発表や生き残った金賢姫の犯行告白などをふまえ、北朝鮮による犯行は明らかだときびしく批判しました。

政府の断定後も「重大疑惑」というだけ(公明党国際局長)

 日本政府も一月二十六日に北朝鮮の犯行と断定します。公明党も同じ日に神崎武法国際局長の談話を発表しますが、北朝鮮の犯行を「重大な疑惑」というだけでした(公明新聞一月二十七日付)。公明新聞が大韓機爆破事件を「北朝鮮工作員」の犯行と書くようになるのは、金賢姫証言から二年半もたってからでした(九〇年十月十二日付)。

署名の写真 写真
「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」と題する韓国大統領あて要望書の公明党議員6人の署名

六人の公明党議員が拉致実行者の釈放を要望

 北朝鮮による日本人拉致事件が問題になったのも、この時期のことです。

 八八年三月、日本共産党の橋本敦参院議員は、七八年に福井、新潟、鹿児島で相次いで発生した男女失踪事件を国会質問でとりあげ、大韓機爆破事件の実行犯の金賢姫証言などを示して追及。これにたいし梶山静六国家公安委員長は「一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」と答弁し、日本政府として初めて北朝鮮による拉致疑惑を公式に認めました。

 橋本質問では「辛光洙(シン・グァンス)事件」もとりあげました。これは、行方不明になった大阪の中華料理店員・原敕晁(はら・ただあき)さんになりすまして韓国に潜入した、北朝鮮の工作員・辛光洙が八五年に韓国政府に摘発された事件です。橋本質問に日本政府は「不法に侵入した北朝鮮の工作員であろう」(城内康光・警察庁警備局長)と認め、共犯者の金吉旭が「四十五歳から五十歳の独身日本人男性と二十歳代の未婚の日本人女性を北朝鮮へ連れてくるようにという指示を受けていた」(同)と答弁。橋本議員は「事実とするならば、恐るべき許しがたい国際的謀略」と批判しました(八八年三月二十六日、参院予算委)。

 驚くべきことに、八九年七月、公明党・国民会議の国会議員六人は、来日する韓国の盧泰愚大統領あてに提出された「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」と題する要望書に署名しています。その政治犯のなかには、辛光洙容疑者と金吉旭容疑者がふくまれていました。「辛光洙事件」が国会で問題になってわずか一年後に、公明党は、日本人拉致実行容疑者の釈放を「要望」していたことになります。署名した六人とは、鳥居一雄、小川新一郎、西中清(以上衆院議員)、猪熊重二、和田教美、塩出啓典(以上参院議員)の各氏です。

91年にも「両党関係を一層深める」ことを確認

 大韓機爆破事件や「辛光洙事件」への北朝鮮工作員の関与が明らかになった後も、公明党はこれらの問題を不問に付したまま、朝鮮労働党との友好をすすめます。

 八九年一月二十七日、朝鮮労働党代表団の金養建団長(党中央委副部長)ら一行が社会党の招待で来日したさい、公明党本部を表敬訪問。応対した大久保直彦書記長は、朝鮮労働党が「自主的、平和的な朝鮮統一に努力していることに深く敬意」を表明しましたが、大韓機爆破事件への言及はみられません(公明新聞八九年一月二十八日付)。

 九一年二月二十六日には、自民・社会両党の招へいで来日した朝鮮労働党代表団(代表・金容淳書記)が公明党を訪問し、石田幸四郎委員長(衆院議員)と会談。会談では「両党間の関係を一層深めていくことで一致した」と報じ、北朝鮮側は公明党代表団の訪朝を招請しました(九一年二月二十七日付)。

 会談直後の公明新聞の「主張」はこうのべています。「公明党と北朝鮮との関係は、十九年前の七二年(昭和四十七年)五月、竹入義勝委員長(当時)を団長とする代表団が初めて北朝鮮を訪問したことに始まる。訪朝団は金日成主席とも会談し、相互の人民の間の理解・友好関係を深めることに大きな役割を果たしたのである」(九一年三月二日付)。

 九四年七月八日、北朝鮮の金日成主席(朝鮮労働党総書記)が死去しました。公明党の石田幸四郎委員長は九日、金正日書記あてに次のような弔電を送りました。

 「金日成閣下の突然のご逝去の報に接し、深い悲しみに堪え難く存じます。日本国公明党を代表し金正日閣下をはじめ朝鮮民主主義人民共和国の全人民に衷心より深甚の哀悼の意をささげるものであります。私ならびに公明党は変わらぬ両国関係の発展を目指し微力を尽くす所存であります」(九四年七月十日付)


最近5年間でも同じ態度(97年以降)

紙面の切り抜き
公明新聞1997年10月10日付

 九七年二月、北朝鮮から亡命した元工作員・安明進(アン・ミョンジン)の証言から、七七年に新潟で失踪(しっそう)した女子中学生の横田めぐみさんは北朝鮮に拉致されたのではないか、とマスコミで大きく報道されました。これをきっかけに、三月二十五日に「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成され、翌日の記者会見で公表されました。四月十五日には日本共産党をふくむ超党派国会議員による「北朝鮮拉致疑惑日本人救援議員連盟」が結成され、政府も北朝鮮に拉致された疑いのある日本人は「七件十人」(九七年五月一日、参院予算委)と発表するに至ります。

「金正日閣下の指導体制の下でのご繁栄」と「公明」代表祝電

 北朝鮮による日本人拉致疑惑に国民の関心が高まるなか、公明党は北朝鮮との友好関係をいっそう強めていきます。

 九七年十月九日、金正日の朝鮮労働党総書記就任にあたっては、「公明」の藤井富雄代表(現・公明党常任顧問)が次のような祝電を送りました。

 「建国の父、故金日成閣下の《を継承され、金正日閣下の指導体制の下でのご繁栄が、極東アジアひいては国際の平和と安寧に寄与されんことを願います」(公明新聞九七年十月十日付)。

 公明新聞は、最近この藤井代表の祝電について「個人崇拝でも何でもない」(二〇〇二年十一月十四日付)などといっていますが、肝心の「建国の父、故金日成閣下の《を継承され、金正日閣下の指導体制の下でのご」までの部分は引用せずに、「(北朝鮮の)繁栄が、極東アジアひいては国際の平和と安寧に寄与されんことを願います」と改ざんしたうえでいっていることです。

 北朝鮮が金日成時代の一九七〇年代から異常な個人崇拝の「指導体制」下にあり、金正日総書記就任はまさにその個人崇拝の「指導体制」を継承したものです。それでもあえて「金正日閣下の指導体制」とうたったこの祝電が就任祝いの「儀礼」をもこえて、金正日個人崇拝の「指導体制」をたたえたものであることは明白です。

00年8月「公式訪問団を派遣したい」と神崎代表

 二〇〇〇年八月には、東順治衆院議員(現・国会対策委員長)を団長とする「公明党有志訪朝団」が北朝鮮を訪問しました。この時の福岡県議の北原氏の手記には、「十一日、平壌の人民文化宮殿で行われた会談の席上、東団長が『近い将来、公明党の公式訪問団を派遣したい』とする神崎武法代表の伝言を伝えたところ、宋会長は即座に反応した。『公明党の公式訪問を心から歓迎する。訪朝はいつになるのか』」と記されています(二〇〇〇年八月十八日付)。

 ことし八月三十日、小泉首相の北朝鮮訪問決定について、神崎武法代表は、「首相の訪朝を歓迎したい。公明党は独自の訪朝団(二〇〇〇年八月)を派遣して、(国交正常化に向けた)環境づくりに努めてきたので大変うれしく思っている」と評価しました(八月三十一日付)。

三十年間一貫する北朝鮮への迎合姿勢

 公明新聞の特集記事は、「共産党は……公明党としては公式のたった一度の72年訪朝団が北朝鮮と交わした共同声明を鬼の首でもとったように取り上げ」と非難しています。しかし、これまで見てきたように公明党は七二年の訪朝団いらい三十年間にわたり、北朝鮮の個人崇拝体制に一貫して迎合してきたのが実際です。

 そして公明党は、日朝首脳会談の直前までは、二〇〇〇年の「独自の訪朝団」派遣などの同党と北朝鮮との関係を、国交正常化に向けた「環境づくり」として“手柄話”にしようとしていたことがわかります。

 ところが、九月十七日の日朝首脳会談で拉致事件の衝撃的な事実が明らかになると、公明党は、手のひらを返したように北朝鮮を「凍土の地獄」とよびだし、帰国事業や拉致事件を利用して党略的な日本共産党攻撃をくりひろげはじめたのです。

 


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