2002年11月18日(月)「しんぶん赤旗」
今年九月の日朝首脳会談で、北朝鮮は日本人十三人の拉致の事実を認め、生存者五人が帰国しました。この拉致問題で、日本共産党国会議員団はどのような役割を果たしてきたのか、詳しく知りたいという質問が赤旗編集局に寄せられています。そこで、一九八八年三月二十六日の参院予算委員会で、最初にこの問題をとりあげた橋本敦前参院議員と、その後、拉致問題を追及した木島日出夫衆院議員に、語り合ってもらいました。聞き手は赤旗編集局です。
――拉致事件はまだ、真相解明や責任者の処罰、家族の帰国など多くの解決すべき問題がありますが、十数年前から拉致問題を国会でとりあげてきてのいまのお気持ちはどうですか。
橋本敦 私は一九八八年三月の参院予算委員会の質問以来、拉致問題を国会で何度かとりあげましたけれど、これは国民の命にかかわる重大事件であり、人権を守るという点からいっても、この事件は徹底的に解明し、被害者のみなさんを一日も早く救出しなきゃならん、そういう思いが常にありました。
同時に、当時、報道は少なかったけれど、七七年、七八年にかけて同様の事件があいついで起こるという異常な社会的事態が、一体どこから起こってくるかの究明も大きな問題だと思いました。こういう大きな課題は、国会で当然とりあげて国民の前に明らかにして解決の方向を導き出していかねばならないという気持ちが強かったのです。
拉致が北朝鮮による犯行だということが確定し、そして生存者の方が五名日本に帰ってくるという状態を今日迎えたことを考えますと、実に長い年月がかかったけれども、やはり断固として真実と正義を貫くという構えのたたかいというのは、国民的課題として大事だなと思います。真相解明を含め、まだまだ課題はありますが、重要な一歩をふみだしたという点では、感慨深いですね。
もう一つは、この問題について、国会のたたかいから、さらに日朝間に交渉ルートを開いて徹底的に解明するという道筋を、日本共産党が打ち出していったことは、たいへん重要だったと思います。とくに九九年の不破委員長(当時)の代表質問での提起は、まさに日本の国民と、日本の主権を守るという課題を外交的にどう道を開いていくかということを見事に先見的に提案したと思います。
いま振り返ってみますと、他党は、単なる行方不明者の調査という要求で終わるなど、どう解決するかという責任ある政策が打ち出せなかった。その状況からみて、日本共産党が国益を守り、国民の利益を守る立場を貫く党だということを、あらためて痛感しています。
――木島さんは、選挙区も拉致事件が発生した福井、新潟などと重なりますが、どのように感じておられますか。
木島日出夫 私は、二度目に衆議院に当選したのが九六年十月で、北陸信越ブロック代表でした。翌年の九七年にはじめて警察白書が拉致問題について、七件十名を「北朝鮮による拉致容疑」として明らかにしたのです。そのころ、新潟などでは横田めぐみさんを救出するという運動が大きく発展しておりました。
私は長野で弁護士をやっているんですが、事務所の後輩の弁護士が新潟出身で、彼のお父さんが拉致被害者家族の方と友人という関係でした。九七年に、私自身新潟でこの被害者のご両親とお会いしたり、国会の事務所で横田めぐみさんのご両親とお会いしました。これらを通じて、これは日本の国としても真相解明をはじめとして頑張らなければならないと感じました。
たいへん痛ましい情報もでてきましたが、五人の方の生存が確認されました。いまこうやって日本にきておられて、個人的な体験からも感慨があります。
――木島さんの質問は、九八年三月でしたね。
木島 参議院の橋本さんがもう十年も前に徹底してこの問題をとりあげて、日本共産党の議員団として、北朝鮮による拉致の疑いを浮き彫りにしていたのを、私も確信にしていました。そのうえで、これら一連の事件についてかなり深く調べ上げました。
最初に起きた事件が北信越の石川県の久米裕さんの事件(宇出津事件)でした。また、唯一物的証拠があがっていたのが富山県高岡の未遂事件なんです。それらを調べ上げて、九八年三月十一日、衆院法務委員会でこの問題をとりあげ、「日本政府としてきぜんとしてあらゆる手段を使って真相を明らかにし、消息を明らかにし、救出のために全力をつくすべきだ」という論を張って追及したことを昨日のことのように覚えています。
日本共産党国会議員団として、さらに真相を徹底して解明していかなければいけないと思っていますが、橋本さん、諌山博さん(元参院議員)のがんばりと、その後の不破委員長(当時)の代表質問で、今日の道筋を切り開いたことに確信をもって、これからもきぜんと取り組んでいきたいと思います。
橋本 もう一つ実感するのは、日本共産党が自主独立の路線をしっかり守ってきた値打ちが光ったということなんです。社民党が朝鮮労働党ときわめて親しい関係ということから離れられずに、疑惑の解明ができなかったということを自己批判していますけれど、日本共産党は、ラングーン事件(一九八三年)や、日本漁船銃撃事件(一九八四年)、大韓航空機爆破事件(一九八七年)など、北朝鮮の無法にたいしては朝鮮労働党との関係が断絶しようとも断固としてきびしく批判をし、また日本国民にたいする権利侵害や主権侵害を許さないという立場を貫きとおしました。
そういう日本共産党だったから、私たちもこの拉致問題をとりあげ、北朝鮮による犯行の疑いが濃厚だとなったあとでも、さらにきびしくこれを追及することを党国会議員団の活動としてやれたし、党はそれを支援してくれました。そういう意味でも日本共産党の自主独立の路線はやはりここでも光ったなと誇りに思います。
――拉致問題を最初に国会質問としてとりあげた動機をもう少しくわしく聞かせてください。
橋本 当時は家族のみなさんも、昔の言葉でいえば、「神隠し」にあったようなことで、何事が起こったのかわからないまま、苦もんの日々を過ごしておられました。
私がこの問題をとりあげたのは一九八八年ですが、八七年十一月に大韓航空機爆破事件が起こりました。その容疑者として逮捕された金賢姫の教育係として拉致された日本人がいたという証言が報道されました。それが一つの大きなきっかけになって、新聞や雑誌に、社説や事件を追ったルポが掲載されるようになりました。
私はそれらを読んで、ようやくここまで具体的に問題がでてきた、追及の方向づけが出てきたと感じたわけです。そこで、私は各事件の似たような状況から一つひとつの事件としてではなしに、一連の事件として究明をやっていく必要があると思って提起しました。当時、私の部屋には秘書が二人いましたが、二人とも賛成でしたし、当時の国会対策委員会(国対)にも問題提起して了承を得ました。
そこで、私の秘書二人で、警察庁や外務省から説明をうけたり、新聞・雑誌などから情報収集する役割と、実際に現地に行って家族の方から状況をお聞きする役割とに任務分担をして準備にあたりました。
――調査した結果はどうでしたか。
橋本 まさに国政の場でまとめて提起するに値する状況だということに確信を持ちました。一つは、三組の若い男女行方不明事件は、どれひとつとして失踪(しっそう)する必然的理由がなにもない。自殺する条件もない。むしろ婚約もし、結納も交わし、近い将来に輝かしい人生を出発したいと希望に燃えていた人たちでした。
もう一つはいずれも国内犯罪と考えられない状況でした。何らかの事件に巻き込まれて身代金請求をされるとかいうこともいっさいない。さらに、富山の未遂事件での遺留品をみると、タオルだけが日本製で、そのほか人間にかぶせる袋だとか、重要な物件はみな日本製品だと断定できないという警察の情報でした。
これは、どこの国かわからないけれども、国外から若い人たちを誘拐するというとんでもない事件の可能性がある。だからこそ、日本政府としては日本の主権とともになによりも国民の人権を守るという責任をもって捜査しなければいけないし、捜査の次第によっては、どこの国であれ当該国にたいして、一日も早く原状回復を要求しなければならない。そういう大問題だから、国対とも相談して、関係大臣を全部呼んで追及できる予算委員会で質問をやることをきめたのです。
――いま議事録を読んでも、質問には論理的なち密さがあります。それが当時の梶山静六国家公安委員長から「北朝鮮による犯行の疑いが濃厚」という答弁を引き出したのでしょうね。
橋本 どういう質問の運びで政府に迫るかをずいぶん検討しましたが、質問する責任は議員の私にありますから、部屋で秘書とともに何度も相談したうえ、最終的には私が全体の質問構想をねりあげ、一問一答の詳細な質問原稿を私の責任で仕上げまして予算委員会に臨みました。
私がとくに重視した質問のスタンスは、どの国の犯行か断定しないことです。私自身、断定できる具体的材料を持っていないし、どこの国であろうと外国から日本にたいして人権侵害や主権侵害は許されないという立場を貫きました。しかし、家族の人たちが悲嘆にくれているという実情をふまえて、政府には責任をもって事件捜査の方向づけをはっきりしなければならない重大な責任があるということを迫力をもって追及すれば、事件の大筋と犯行の責任がどこにあるかを政府に明らかにさせることができると思いました。
私はそういう立場で質問して梶山国家公安委員長にたいしても、一連の事件のもつ特異性と家族のみなさんの切実な思いと苦しみの実情を基本におきながら、論理を積み上げて行く中で、政府の責任ある見解はどうなんだと迫っていきました。
ここで一言しておきますが、最近、私の秘書だった兵本達吉君(注=九八年五月の、公安警察に自分の再就職を依頼したという行為によって九八年八月に党から除名)があちこちで、彼がひとりで調査し彼がひとりで政府を追及してきたかのように吹聴しているのは、とんでもないことです。私の拉致問題での国会質問は、これまでのべてきたような立場から、秘書団の調査や分析も活用しながら、私の弁護士としての経験も生かして、常に私自身の責任で練り上げてやってきたものです。また、わが党が九七年に彼の「拉致調査を妨害」したかのようにいっていることも、みずから一方で九七年から九八年にかけて拉致調査で全国を駆け回ったといっているように、根も葉もないウソです。
木島 私も改めて橋本質問を議事録で読み返してすごい追及だったなと思いますね。その年の一月に金賢姫が大韓航空機を爆破したことを告白し、拉致された日本人女性から教育を受けた――客観的な事実、表に出た事実はそれだけです。その事実をしっかり据えて、行方不明事件をきちんと位置付けて真相にせまっていく。そして、梶山大臣に「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と答弁させたのです。
日本の国務大臣が相手の国の名前をあげて、拉致の疑いが濃厚とすること自体が政治的にも法律的にもたいへんなことです。八八年三月の時点でここまで追い込んでいったというのはすごいなと改めて感じました。
――それが、九〇年に諌山さんが参院地方行政委員会でおこなった質問にもつながっていくのですか。
橋本 私が質問して、政府は鋭意捜査すると約束しましたが、さらに詰めていかないと、政府がどれだけ本気になってやるかわからない。一回の質問で終わりとすれば、目的は達しないわけですから。そのときに諌山さんが、人権問題ということで重ねてきびしく調査を要求する質問をしたいということだったので、私も大賛成でした。
拉致問題というのは、たまたま私が予算委員会でやりましたが、私の個人的な関心と問題意識をもってやったというわけではなくて、党議員団の方針として究明する課題だとしてとりあげているのですから、積極的に協力しました。
木島 諌山さんという人は、弁護士としてもまた共産党の議員になってからも警察問題をとりあげてきた人で、この問題ではピカイチです。それは正しい意味で警察が国民の権利や人権や財産、生命を守る役割を果たさなければならない。しかし、それを果たしていない。それはゆがんだ政治警察だからと、ただしてきた人です。
九〇年六月の質問でも、当時人権問題として大問題だった坂本堤弁護士事件と拉致問題の二つをとりあげて、警察はきぜんとしてきちんと捜査をやりなさいという思いをこめてとりあげているわけです。
――橋本質問から二年後の諌山質問でも、事態の解明が警察の手ではいっこうにすすんでいないことが明らかになりました。
橋本 ですから、ある意味では警察を激励し、叱咤(しった)する必要があったんです。マスコミもほとんどとりあげなかったのです。八八年の私の質問でも「赤旗」は質問の翌日、一面できちっととりあげていますけれど、残念ながら他の新聞はほとんどとりあげなかったですね。
横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんが書かれた『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』という本でも政府に拉致疑惑をはじめて答弁させたのは橋本質問だったと書いておられます。ところがある学者がこの本で書いているように、この梶山答弁について「国会で国の治安の最高責任者が、北朝鮮を犯罪者扱いしたこの答弁は、まさに歴史的なものだったが、マスコミはまさにこの大ニュースを無視した。読売、朝日、毎日はこの答弁について一行も書かず、書いた産経、日経も一段ベタ扱いだった」のです。
それに比べ「赤旗」は一面で報道したというのは、共産党の姿勢を示すものとして大事です。
木島 新潟で横田めぐみさん救出運動をおこなってきた「横田めぐみさん等拉致日本人救出の会」が九八年四月に発行した記録集では、産経新聞の阿部雅美編集局次長が「拉致疑惑を最も熱心に国会で取り上げて来たのは共産党の議員です。共産党と産経新聞は昔から仲が良くないのですが、これはそういう問題ではありません」と指摘していますね。
――その後の経過はどうだったのでしょうか。
木島 その後も日本と北朝鮮の関係は切れたままで、なんの情報も入ってこない。マスコミもとりあげない状況がずっと続くわけです。
そういう苦労のなかで、九七年の段階で拉致被害者の家族のみなさんは家族会をつくり、橋本さんがあらためて追及の質問をする。世論の関心もたかまり、警察も初めて白書で書くわけです。
橋本 横田めぐみさんのお父さんやお母さんは、そのときの気持ちを本などに書いておられるんですけれども、話を聞いたときは、本当に自分の娘が北朝鮮にいるなんていうのは、半信半疑だったのです。
それで実名を出すべきかどうか悩みに悩んだあげくに、娘を救い出さなきゃならんと思いきって実名で運動に立ちあがる決意をされました。それから横田めぐみさんの事件が表に出てくる、(拉致被害)家族会の結成もあり、拉致日本人救援議員連盟(旧拉致議連)の結成もあり、国会でも他の議員も横田さんの事件を中心に質問をするということで第二段階が始まったんですね。
――「拉致日本人救援議員連盟」への対応はどうでしたか。
橋本 この議連は当時、新進党の永野茂門参院議員が幹事役になってつくる段取りでした。結成のときには、わが党に連絡はなく、結成してから永野議員の秘書が議連結成の趣意書と入会申込書をもってあいさつにこられて、「橋本先生がこの問題に深くかかわってきたことがわかるように『文芸春秋』に掲載された横田滋氏の文章を全議員にコピーして配布し、橋本先生に敬意を表しました」といわれました。日本共産党が先進的にやっていたことはよくわかっていたわけです。
この議連には、衆院は松本善明、正森成二両議員、参院は立木洋議員と私の計四人が入会したのです。
木島 この「拉致議連」は残念ながら、今年三月に会長の中山正暉自民党衆院議員が辞任を表明したことを受け、日本共産党に事前の連絡もなく解散してしまいました。
そして、四月二十五日に現在の「拉致議連」(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)が発足しますが、この議連は最初から日本共産党と社民党を除外して、他の国会議員に参加がよびかけられたものでした。
――九七年の橋本さんの二回の質問、九八年の木島さんの質問とで、いち早く家族への支援体制や情報提供を政府に求められていますね。
橋本 九七年の質問のころは、政府に捜査や調査をきびしく要求してもなかなかすすまない。その大きな壁はなにかというと、国交がないことだということが次第に明らかになってきていたのです。だから、このときの質問で私は「この事件は日本の国家主権の侵害にかかわる問題であるから、北朝鮮との国交の関係(がない)という難しい壁をどう乗り越えて、どう早くこの人たちに救済の手を差し伸べるか、政府としても本当に大事な問題だ」と指摘したのです。
また、そういう方向に向けて、政府全体としての体制を組まなければいけないと、関係省庁会議の設置を提案しました。関係省庁の知恵を全部集めて、国交がないことの壁をこえていく展望をもって検討しなければだめだということです。
もう一つは、家族会のみなさんに政府として全面的に協力する体制づくりをやりなさい、とりわけ情報をきちっと伝えることは大事ですから、このことも指摘をしたんですね。
木島 すでに九七年の時点で、関係閣僚会議や政府としての対策室、家族への情報提供など、今日とられている措置がたいてい提起されているのですね。
――木島さんの九八年の質問の経緯はどうなのですか。
木島 私は九六年の再選後、北信越選出ですから、身近に横田さんたちともお会いしたことは話しましたが、そのことで人ごとではないなという感じを持っていたのです。
しかし、調べてみると、政府が動いている感じがしない。警察も手付かず、外務省も手付かず、それで業を煮やしてああいう質問になったという感じです。
横田さんご夫婦が私の部屋にみえられたときに、一番印象深いのは「政府からなんの情報も与えられていない、それがもう切ない」ということです。それは脳裏に焼き付いています。
そういう思いでしたから、私も質問の中で、せめて富山の拉致未遂件の立件記録は見せてほしいと追及しました。不起訴記録ですから、日本の検察は基本的には見せないんですが、せめて拉致被害の家族のみなさんには、見せてやってほしいと。当時の原田刑事局長から「関係者との関係で検察官において個別に判断することは可能であろう」と答弁がでました。それは非常に印象深いですね。
翌日、産経新聞が「家族らに開示可能 北朝鮮による拉致疑惑捜査記録
衆院法務委で法務省見解」という見出しで大きくとりあげました。
――木島さんは、北朝鮮との交渉の状況を詳しく追及されていますね。
木島 当時、いくら警察や外務省から事前の説明を受けても、北朝鮮とは接触がないからなにも情報がないんだという話でした。しかし、あらゆるパイプをみつけだして、日本政府は北朝鮮と接触して、真相解明と消息を明らかにすべきじゃないかというのが、私の質問の中心でした。
政府の側からは、赤十字会談でも拉致問題をちょっと話すと、北朝鮮が席を立って帰ってしまうような状況だという告白だけでした。国連を通じて何をやったんだと追及をしても、明石国連事務次長(当時)との話で、この問題を提起したというだけでした。その後、詰めているかと質問すると、詰めておりませんという答弁まであるのです。
――「日本の主権が侵害されたたいへんな事件だから、民間の力も借りて、あらゆる情報を集約して北朝鮮に迫ることが求められる」とも提起されていますね。
木島 警察は「北朝鮮による拉致の疑い」を認定しておきながら、何もやっていないと感じたのです。だから思わずこういう言葉になったのかなと思います。
いわば北朝鮮に確固たる事実をおさえて迫れということですね。
橋本 外務省の審議官級の予備交渉でも拉致はないと軽くあしらわれる、与党訪朝団がいっても「一般的な行方不明者として調査」しましょうという程度だったのです。これでは、家族や国民の期待に応えるような拉致疑惑の解明の進展はできないことがはっきりしたと思うのです。だから両国の責任と権限のある者との間で交渉をしっかりやらないといけないという思いが、私の質問、木島さんの質問で非常に感じました。このままでは行き詰まり状況だったのです。
橋本 そこへ、不破委員長(当時)が、九九年一月と十一月の衆院本会議での代表質問で、この拉致問題を含めて北朝鮮とのあいだに正式に交渉の道を開くということを提起されたということに、私は感激したんです。
木島 日本共産党の国会議員団が果たしてきた役割を、そういう一連の流れのなかで位置付けますと、橋本さんが活路を開き、諌山さんや私が突き進んで、これではもう限界というところで、不破さんが新しい提起をする。そこから局面は大きく変わってきたと思うのです。
橋本 本当にそうなんですよ。なんぼ調べても、犯人に直接結びつく直接証拠は日本にないんです。しかし、政府は北朝鮮の犯行の疑いが濃厚だという判断をもつ状況であることは間違いない。そこからどう進むか、残された道は、両国間の確固とした交渉の場なのです。それ以外に、拉致問題が疑惑から事実へと移っていくプロセスはないわけです。それを提起をしたことは、最後の重要なステップとして、画期的な提案だと思いますよ。
その証拠に、権限ある者同士の首脳会談で拉致の疑惑ははっきり事実になりました。もはや疑惑ではない。そういう意味で、議員団の質問の積み重ねと追及が不破さんの提案に結びついていったことは非常に重要であったと思っています。
木島 私の質問が、もうこれ以上は真相はなかなか出てこないというギリギリのところでしたね。
橋本 そういう意味では、今までのたたかいの蓄積がある上に、当時の不破委員長が提案されたあの時期は、実にいい時期だったのです。拉致問題解明の壁を取り払い、新しく転機をよぶ大事な時期だった。そこから新たな展開をしたのです。
木島 北朝鮮が拉致の事実を認めたことをうけて、その日に発表した談話のなかで、志位委員長は、拉致はこれだけなのか、この犯罪をおこなった責任者はだれなのか、被害者はどのような扱いを受けたのか、などの問題、また、責任者の厳正な処罰、被害者への謝罪と補償の問題などを、提起しています。これらの解明は、まさにこれからです。橋本さんの拉致問題追及の初心を新たに生かして、がんばりたいと思います。
――きょうは、どうもありがとうございました。
一九九〇年の参院地方行政委員会で拉致問題をとりあげた諌山博元参院議員に聞きました。
――この質問で諌山さんは、警察に捜査の進展をただして「厳正に速やかに調査」するよう求められました。当時、どういう思いをもってこの質問をされたのでしょうか。
諌山 この時、オウム真理教による坂本弁護士一家拉致事件と並んで、北朝鮮がかかわるとされる拉致事件がいろいろと報道されていました。八八年の橋本質問への答弁ののち、この問題で、警察はどこまで本気で捜査をすすめているのか。これを確かめ、そして捜査が不十分だったら叱咤激励するという立場です。
拉致事件は、いずれ、明らかにしなければならない問題でした。議事録を読み返しますと、「国民は大きな関心を持っており、外国に連れ去られたのではないかということになると日本の主権侵害にかかわる問題です」と言っています。しかし真相は何かわからなかった。明らかにする必要があるが、この真相究明をするのはやはり捜査権をもって事件を担当する警察です。警察を通じて明らかにするというのが本筋であり、そこで警察に捜査を確かめ、叱咤激励したかったのです。
――質問はどのように準備しましたか。
諌山 新聞報道が材料でしたね。それしかなかったと思います。これは警察問題として法務部会の関係で、橋本(敦・前参院)議員と相談しました。それから国会対策委員会にも事前に相談して了解をとりました。
――今年九月の日朝首脳会談で拉致の事実を北朝鮮が認め、事件の真相解明は急展開しました。
諌山 私の質問にたいしては、当時「全力を尽くしているが手がかりがない」というのが警察庁長官の答弁でした。その後もその状況はかわらなかったと思います。だから、こういう形で事実が明らかになってこようとは思わなかったです。相手が北朝鮮ですから、なかなか大変だろうと思っていました。不破さんが三年前の代表質問で、とにかく交渉ルートをもて、といったのは、やっぱり正論でしたね。その流れの中で明らかになってきているわけですから。