2002年10月3日(木)「しんぶん赤旗」
政府が二日発表した「北朝鮮より説明のあった個別情報」の全文は次の通り。(基本的に原文のまま)
(1)朝鮮名=リム・チョンス、1953年6月13日生
(2)本籍=鹿児島県出水郡東町山門野947
(3)住所=熊本県健軍4―2―8
(4)前職=京都外国語大学学生
(5)入国経緯=1980年ごろ、語学習得および論文執筆のため、スペイン滞在中、石岡亨さんとともに、特殊機関工作員と接触する過程で共和国訪問の勧めに直ちに応じ、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的で、1980年6月7日、共和国に連れてこられた
(6)入国後の生活=特殊機関の人々が、朝鮮に残って勉強をしながら日本語を教えてくれないかと依頼したところ、承諾したことから、特殊機関内の学校で、学生に日本語を教える仕事を誠実に行っていた。独身を通していたが、楽天的な性格ではなく、すべてにおいて慎重で思索的な人間で、受け持った仕事および生活両面においてそつがなかった。これらの正確な描写は彼から日本語を教わった学生の回想に基づくもの
(7)死亡経緯=1996年8月23日、リャンガン(両江)道の革命史跡への参観に行く途中、ハムギョンナムド(咸鏡南道)コウォン(高原)郡と北西郡の境界にあるトチョル嶺という峠道を自動車乗車中、運転手の不注意による事故で2人とも死亡した。事故調書はあるが、法的仕組みが整った時点で関連情報・書類について引き渡すことができる
(8)遺骨=ハムギョンナムド(咸鏡南道)プクチョン(北青)郡にあった遺骨安置所は洪水被害で流されたが、最近の調査委員会による調査で遺骨が発見され、100%の保証はないが、再火葬され、2002年8月30日に平壌市ランナン(楽浪)区域オボンサン共同墓地に安置された。遺骨の移動年代、火葬状況から測定して当人の遺骨に近いと判断したもの
(9)遺品=写真が残っている
(10)よど号犯との関連については解明されていない
(1)朝鮮名=ミン・ヘギョン、1959年5月17日生
(2)本籍=新潟県佐渡郡ハタノマチミヤギワ
(3)出生地=新潟県佐渡郡ハタノマチミヤギワ
(4)住所=新潟県佐渡郡ハタノマチ四日町530
(5)現住所=平壌市スンホ(勝湖)区域リプソクリ(立石里)
(6)前職=佐渡総合病院看護婦
(7)現職=被扶養生活
(8)入国経緯=1978年8月12日、特殊機関工作員が身分を隠しおよび語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引き渡し受けて連れてきた
(9)入国後=約2年間、特殊機関の招待所において、語学の学習、参観を通じ、実情に慣れてきた。1980年8月8日、入北した元米軍兵士と結婚し、国家から生活条件を保障されて暮らしている
(10)家族関係=夫チャールズ・ロバート・ジェンキンス。1940年2月18日生で、現在62歳。南朝鮮侵略軍第一騎兵師団8連隊1大隊C中隊の分隊長中士として勤務中に1965年1月5日入北。チャールズは、曽我ひとみさんと結婚し、2人の娘をもうけた
長女=美花、平壌外国語大学学生、1983年6月1日生、19歳
二女=ブリンダ、平壌外国語大学で勉強している。1985年7月23日生、17歳
(11)母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業者から引き渡しを受けたのは曽我ひとみさん1人だけ
(1)朝鮮名=リュ・ミョンスク
(2)1964年10月5日生、当時13歳
(3)本籍=東京都品川区大井(ユゲ)6―2985
(4)住所=新潟県新潟市水道町2―808 当時中学生
(5)入国経緯=1977年11月15日、新潟市内で工作員が学校から帰宅途中の本人に会った。工作員は身辺の露出の危険性を感じ、露出を防ぐために同女を拉致した。特殊機関は、所属に関係なく軍事化されており、命令を実行した者は責任を問わないことになっているが、本件の実行犯は命令なく恣意(しい)的に行動した者であり、職務停止処分を受けている
(6)入国後の生活=1977年11月から1986年7月まで、招待所で朝鮮語、現実研究および現実体験した。1986年8月13日結婚
(7)死亡の経緯=1993年3月13日、平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院で精神病で死去
(8)遺骨=墓のあったところは病院を通じて探している
(9)遺品=愛用のバドミントンのラケットと写真
(10)家族=夫キム・チョルジュ、41歳、会社員。娘キム・ヘギョン、1987年9月13日生、中学生。住所=万景台区域タンサン(堂上)洞
(11)1988年ごろから1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃証言があるとの話は事実無根であって虚偽の情報である
(12)18歳ごろから精神的に不安定であったということについても根拠はない。結婚後、娘を産むまで精神的な所見はなかった。(なお、入国直後、招待所で曽我ひとみと一緒に生活していた事実がある)
(注)夫については、「政府関係者とは会う必要はないと思うが、両親が来た際には会えると思う」と発言している旨代表団に説明があり、30日夕刻、同人からの書簡が代表団に手交された。
(注)なお、李恩恵事件につき、北朝鮮側は、調査の結果、李恩恵なる日本人女性はいない旨発言。
(1)朝鮮名=コ・ヘオク 女
(2)1955年8月10日生 当時23〜24歳
(3)本籍=埼玉県川口市朝日1―1174―2
(4)出生地=埼玉県
(5)住所=東京都豊島区高松1―2
(6)日本在住時の職業=飲食店勤務
(7)入国経緯=工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない
(8)入国後=1978年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語の習得、現実研究および現実体験をした。1984年10月19日、原敕晃さんと結婚。1986年まで家庭生活
(9)死亡経緯=夫の死亡(1986年7月19日)後、精神的衝撃を受けていたが、数日して安定して帰宅する途中、1986年7月30日、ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡のマシク嶺峠で乗用車とトラックの衝突事故で死亡。この事故で、同人および運転手を含む3名が乗用車で死亡、トラックの2人は重傷を負った
(10)遺骨=ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡に墓があったが、1995年7月の豪雨でサンウォルリ(上月里)の貯水池ダムの堤防が壊れ、墓が流された
(11)遺品=なし
(12)原敕晃さんと結婚するも、子供なし。原さんもリンサン(麟山)郡で病気で死亡
(13)事故での死亡者と生存者に関する書類が存在するが、今後、法的仕組みができた時点で証言と文書を提供することができる
(1)朝鮮名=キム・ヒョンスク 女 1960年1月12日生
(2)本籍=神戸市兵庫区須佐野通2―13
(3)住所=神戸市長田区蓮宮通4―1
(4)前職=神戸外国語大学学生
(5)入国経緯=1982年留学のため英国に出国。特殊機関メンバーの1人が接触、工作の過程で共和国に行ってみないかと言うと、一度言ってみたいと言ったことから、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的で1983年7月15日平壌へ連れて行った
(6)入国後の生活=資本主義社会とは異なる制度の中で暮らしてみたいと言ったため、特殊機関は、彼女の意向に従い、入国後1年後から、石岡亨とともに特殊機関の学校で日本語を教えさせた
1985年12月27日、一緒に仕事をしていた石岡亨と本人の自由意思で結婚し、翌年娘を生んだ。娘の名はリ・ヨンファ。招待所で幸せな家庭生活を送っていた
(7)死亡経緯=1988年11月4日の夜、チャガン(慈江)道ヒチョン(熙川)市内の招待所にて寝ている途中、暖房用の石炭ガス中毒で子どもを含む家族全員が死亡
(8)遺骨=家族と共にヒチョン(熙川)市ピョンウォン(平院)洞に葬られたが、1995年8月17日から18日の大洪水による土砂崩れで流出。現在引き続き捜しているものの発見に至っていない
(9)遺品=写真が残っている
(1)朝鮮名=パク・チョルス 男 1936年8月2日生、当時43歳
(2)本籍=島根県松江市天神町45―9
(3)出生地=宮崎県宮崎市鍛冶町72
(4)住所=大阪市東成区東小橋2―4―23
(5)前職=大阪市の中国料理店の調理師
(6)入国経緯=金もうけと病気治療(歯科治療)のため、海外行きを希望していたところ、工作員が本人の戸籍謄本を受け取る見返りとして日本円100万円と共和国への入国を密約した。これにより1980年6月17日、宮崎県宮崎市青島海岸から連れてきた
(7)入国後の生活=1980年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語、現実研究、現実体験をしていた。1984年10月19日、田口八重子さんと結婚。
(8)死亡経緯=1986年7月19日ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡で肝硬変で死亡
(9)墓=田口八重子さんと同じところにあったが、1995年7月の豪雨によりダムが決壊し流される
(10)遺品=なし
(11)子供=なし
(12)辛光洙の関与等については今後法的仕組みができたら提供する
(1)朝鮮名=オ・ソンサム 男 1955年6月4日生
(2)本籍地=福井県飯盛市71―23
(3)住所=同上
(4)前職=大工見習い
(5)現職=社会科学院民俗研究所資料室翻訳員
(6)入国経緯=1978年7月7日、福井県小浜市で、特殊工作員が語学養成のため拉致してきた
(7)生活の状況=1979年11月25日、浜本富貴恵さんと結婚。詳細はプライバシーにかかわるので、本人に確認してほしい
(1)朝鮮名=リ・ヨンオク 1955年6月8日生
(2)本籍地=福井県小浜市阿納9―3
(3)住所=同上
(4)前職=被服店店員
(5)現職=被扶養生活
(6)入国経緯=地村保志に同じ
(7)生活状況=1979年11月25日、地村保志さんと結婚。詳細はプライバシーに関するため、本人に確認してほしい
(8)家族関係=娘1名、息子2名がいる 長女 オ・ギョンエ キム・ヒョンジク師範大学学生 長男 オ・ギョンソク 平壌機械大学学生 二男 オ・ギョンホ ランラナン(楽浪)中学生
(9)平壌市ランナン(楽浪)区域に居住
(1)朝鮮名=パク・スンチョル 男 1957年9月29日生
(2)本籍地=新潟県柏崎市土合931
(3)住所=同上
(4)前職=中央大学3年生
(5)現職=社会科学院民俗研究資料室翻訳員
(6)入国経緯=1978年7月31日、柏崎市で特殊機関工作員が語学養成のため拉致
(7)生活状況=1980年5月15日、奥土祐木子さんと結婚。プライバシーに関するので詳細は本人に確認してほしい
(1)朝鮮名=キム・グムシル 女 1956年4月15日生
(2)本籍地=新潟県柏崎市平井1993
(3)住所=同上
(4)前職=カネボウ化粧品会社社員
(5)現職=被扶養生活
(6)入国経緯=蓮池薫と同じ
(7)長男=パク・ギヒョク
電子計算機単科大学学生
(8)平壌市ランナン(楽浪)区域に居住。他の詳細はプライバシーに関するので、本人に確認してほしい
(1)朝鮮名=キム・ヨンチョル 男 1954年10月27日生
(2)本籍地=鹿児島県
(3)住所=鹿児島県鹿児島市池の上町16―12
(4)前職=電信電話公社職員
(5)入国経緯=1978年8月12日、鹿児島県吹上キャンプ場で語学養成のため特殊機関工作員が拉致
(6)入国後の生活=1978年8月〜1979年9月、招待所にて朝鮮語、現実研究、現実体験
1979年4月20日 増元るみ子さんと結婚 1979年9月4日 ウォンサン(元山)海水浴場ででき死(心臓まひ)
(7)墓=ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡サンウォル(上月)>里にあったが、1995年7月の貯水ダム崩壊により流失
(8)遺品=なし
(9)1994年金日成総合大学、金正日政治軍事大学で目撃されているとの日本側主張は事実無根
(1)朝鮮名=ホ・ジョンシル 女 1953年11月1日生
(2)本籍地=鹿児島県鹿児島市上本町20―18
(3)住所=鹿児島県鹿児島市上本町13―14
(4)前職=事務員
(5)入国の経緯=1978年8月12日、鹿児島県吹上浜キャンプ場で特殊機関工作員が語学養成のため拉致
(6)入国後の生活=1978年8月〜1981年8月まで招待所で朝鮮語、現実研究、現実体験
1979年4月20日 市川修一さんと結婚
1981年8月17日 心臓病によりファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡にて死亡
結婚前は、市川修一さんと異なる招待所で生活していた。市川修一の死亡後は、結婚してから住んでいた招待所にそのまま住んでいた
(7)墓=夫(市川)と同じリンサン(麟山)郡上月里にあったが、1995年7月の貯水ダム崩壊により流失
(8)遺品=なし
(9)子供=なし