公明党が、北朝鮮による日本人拉致問題で、日本共産党攻撃を始めています。公明党の攻撃に反論するとともに、日本共産党がこの問題でどのような役割を果たしてきたのかについて、あらためて紹介します。
日本共産党 | 疑惑提起し解決策示す |
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第一に、北朝鮮による拉致疑惑を国会で初めてまとまった形で提起し、政府に認めさせたのは、日本共産党国会議員団でした。
一九八八年三月に橋本敦参院議員(当時)は予算委員会で、七八年夏に福井、新潟、鹿児島などで相次いだ行方不明事件について、政府の捜査状況をただしています。これにたいして、梶山静六国家公安委員長(当時)は「恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」と、政府として国会の場ではじめて拉致疑惑が存在することを認めたのです。
日本共産党はその後も、衆参の法務委員会などで質問し、拉致疑惑の究明を求めてきました。
第二に、拉致の問題を解決する道理ある方法を国会で提案したことです。
不破哲三委員長(当時)は、九九年一月の衆院本会議質問で、「北朝鮮の政権あるいは政権党が、国際社会におけるルールについて、われわれと共通の常識をもたないことは、私たちもよく知っています」としつつ、軍事的対応の悪循環を断ち切るためにも、「北朝鮮との正式の対話と交渉のルートを確立する努力を、本腰をいれて、真剣におこなうべきだ」と提案しました。
さらに同年十一月の本会議質問では、「北朝鮮とのあいだには、ミサイル問題、拉致問題などいくつかの紛争問題をもっていますが、それは、交渉によって解決すべき交渉の主題であって、その解決を交渉ルートをひらく前提条件としたり、すべてを他の国の外交交渉におまかせするといった態度では、問題は解決できません」と強調、無条件に交渉ルートを開き、交渉のなかで拉致問題を含めた日朝間の諸懸案の解決をはかるべきだと提案しました。
この二回の提案が、同年十二月の日本共産党をふくむ超党派訪朝団の派遣につながり、朝鮮労働党との会談では日朝の政府間交渉について前提条件をつけないで再開することで合意しました。これを受け、翌年、政府間の国交正常化交渉は再開されました。交渉はその後、中断はありましたが、こうした一連の動きが、ことし九月十七日の日朝首脳会談に実を結ぶことになったのです。
日本共産党が、首脳会談での国交正常化交渉再開の合意を「強く支持」したのは、「交渉ルートを開こう」と提案してきた党としての立場からのものでした。
公明新聞は十月十四日付の「拉致問題と左翼政党の対応」なる記者座談会で、こうした日本共産党の立場について、「拉致問題に関する共産党の公式見解は、『拉致事件の解明を国交正常化交渉の前提とすべきでない』と一貫していた」としながら、この主張が拉致問題を「棚上げ」するものだと論難しています。こんな論理が一体通用するのでしょうか。
なにより、北朝鮮が拉致の事実をはじめて認めた今回の日朝首脳会談自体が、拉致問題など個別問題の解決を交渉の「前提」とせずに、日朝間の諸懸案の解決を「包括的に促進する」という方式による会談として実現したものでした。公明党は、みずから与党として参加する政府首脳がおこなった会談も、拉致問題を「棚上げ」したというのでしょうか。
九九年の超党派訪朝団は出発に先だって、無条件・無前提の政府間交渉の再開をめざすことを確認していましたが、これには公明党も加わっていました。この確認も拉致問題を「棚上げ」したものだというつもりでしょうか。
二〇〇〇年三月七日には、政府が北朝鮮へのコメ支援の決定を受け、公明党の冬柴鉄三幹事長が「拉致疑惑も交渉の議題に」などとする談話を発表しましたが、公明新聞によればこれも「棚上げ」談話ということになってしまいます。
だいたい、「拉致事件の解明を正常化交渉の前提とすべきではない」という主張が、どうして拉致問題の「棚上げ」になるのか。反対に「拉致問題の解決」を交渉の「前提」にすれば、交渉は始まらないし、交渉が始まらなければ、拉致問題の解決の道筋も閉ざしてしまうことになるではありませんか。
だから、公明党も超党派訪朝団に参加したさいには、「無条件に交渉ルートを開くべきだ」という合意に加わったのではないでしょうか。
公明新聞の記者座談会はまた、「今回の日朝首脳会談にあたっても、志位委員長は直前まで、『拉致は疑惑の段階』と言ってはばからなかった」と書き、それをもって日本共産党が拉致問題を「棚上げ」し、とりくみに「後ろ向き」であったかのようにいっています。
「拉致疑惑」の言葉は最近の公明新聞にも(左=ことし8月29日付)、冬柴幹事長は「拉致疑惑も交渉の議題に」と表明(右=同2000年3月8日付) |
しかし、北朝鮮による拉致について「疑いのある段階」だというのは、日本共産党が勝手にいったことではなく、政府と警察が捜査の到達点として公式に明らかにしてきた立場です。
「拉致疑惑」の言葉が問題だというなら、この言葉をくりかえしてきた公明党や公明新聞の立場はどうなるのでしょうか。
たとえば、ことし、二〇〇二年の公明新聞の記事や幹部の発言、国会質問を見ると―
「政治決断の必要性で一致 日本人拉致疑惑」(八月二十九日付)、「日本人拉致疑惑で参考人質疑」(七月二十六日付)など、あげればきりがありませんし、公明党が三月にたちあげたプロジェクトチームの名前は「拉致疑惑事件調査等プロジェク ト」でした。
神崎武法代表は三月十三日の記者会見で「有本さんを含む拉致疑惑の真相を徹底的に解明するために」と発言。国会では、同党議員が「この拉致疑惑、あるいは拉致問題と言われるものは日本だけの問題ではありません」(山口那津男参院議員、外交防衛委員会、四月十八日)と質問していました。
日本共産党は、拉致行為は重大な国際犯罪であるという認識にたって、この問題を政府として北朝鮮に提起する以上、捜査の到達点、すなわち「疑惑」の段階にふさわしい、足場を固めた交渉が必要だと主張してきました。これは、問題を軽くみたのではなく、逆に重大な国際犯罪だからこそ、そうした対応が必要だという立場からの問題提起でした。
拉致問題は、九月十七日の首脳会談で北朝鮮がその事実を認めたことで、「疑惑」が疑いない「事実」になったというのが、ことの経過です。
北朝鮮が拉致の事実を認めたもとで、日本共産党は真相の究明、責任者の処罰、謝罪と補償など、国交正常化交渉のなかで、またそれと並行して解決をはかるべきだと主張しています。
公明党 | まともな解決の道示さず |
公明党が拉致問題でいったいどう責任ある解決の道筋を示してきたというのか―
一九九四年に新進党に合流した公明党が、新進党解党を受け、新公明党を再結成したのは九八年十一月のことです。当時の日朝間の状況は、九二年十一月以来、日朝国交正常化交渉も中断中で、北朝鮮のミサイル発射(九八年八月)をきっかけに、対立的な雰囲気、とくに軍事的対応の悪循環ともいうべき事態が拡大している時期でした。
このとき、公明党は再結成にあたっての「基本政策大綱」で、「北朝鮮のわが国に対する挑発的な外交姿勢が改められない限り、日朝国交正常化交渉は当面凍結するべき」(公明新聞九八年十一月十一日付)との立場を鮮明にしたのです。
政党が北朝鮮問題にどう対応するかは、翌九九年一月の通常国会でも正面から問われました。ところが、神崎代表は同月二十日の衆院代表質問で北朝鮮問題をとりあげながら、政府の「外交方針」を聞くだけで、現状打開の方途はいっさい示すことができませんでした。日本共産党の不破委員長(当時)が同じ代表質問で、軍事的対応の悪循環を断ち切るためにも「交渉ルートを開け」と責任ある提案をおこなったのとは、対照的でした。
ところが、その後、自民党内で北朝鮮への食糧支援の凍結解除の動きなどが出てくるなか、公明党は一転、「北朝鮮との対話」を強調し始めました。自民党との連立を決めた九九年七月の大会では、「朝鮮半島の平和へ積極的な関与政策」として、「拉致事件などの解決をあえて『入口』に位置づけないで、国交回復交渉をすすめる機会を粘り強く探る」方針を打ち出すにいたりました(公明新聞同年七月二十二日付)。
九九年十月の政権入りを目前にした九月二十七日には、公明党の神崎代表が駐日米大使と会談、北朝鮮問題について「拉致問題は重要だが、対話の前提条件にすべきではなく、対話の姿勢を強く打ち出すべきだ」とまでのべたのです(公明新聞九月二十八日付)。
そして、公明党も与党になった政府が翌二〇〇〇年三月に対北朝鮮コメ支援を決定すると、公明党は冬柴鉄三幹事長名で賛同談話を発表、そのなかで「日本人拉致疑惑について、交渉の場で一日も早く議題として取り上げられ」るよう要望しました。
野党時代には、タカ派的な新進党の影響から国交正常化交渉「凍結」論をとり、与党入りに合わせて政府・自民党に歩調を合わす―日朝問題、拉致問題にたいする公明党の態度はざっとこんなところです。
そしてこんどは、「拉致問題の解決を交渉の前提とすべきでない」という主張や、「疑惑」という言葉を使ったことを「棚上げ」「後ろ向き」と攻撃する。それが自分たちの主張にもはねかえってこようがお構いなし―ここには、拉致問題で責任ある解決の道筋を示さないどころか、党利党略でしかこの問題を扱ってこなかった公明党の姿がよくあらわれています。
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日本共産党 | 無法行為を厳しく批判 |
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公明党は、「共産党の拉致問題への後ろ向きの姿勢は、同党が北朝鮮の朝鮮労働党とかつて長く『友党』関係にあり、北朝鮮に迎合姿勢をとってきた過去と無関係ではない」(公明新聞十四日付記者座談会)などといっていますが、これは事実を根本からねじ曲げるものです。
日本共産党は、歴史的に、北朝鮮の国際的無法行為にたいするもっともきびしい批判者でした。拉致問題での一貫した態度も、この立場にたったものです。
日本共産党と朝鮮労働党との関係を、歴史的にふりかえってみましょう。
◇
北朝鮮は朝鮮戦争後、国際的に問題になるような無法行為は、一九六〇年代半ばまでありませんでした。朝鮮労働党も、国際活動の分野では、比較的まともな態度をとってきました。
一九六〇年代前半、ソ連が日本共産党を破壊するために、ソ連追従の志賀一派を手先として乱暴な干渉をおこなったときには、この干渉に公然と反対する立場を鮮明にした数少ない党の一つでした。六六年、日本共産党の代表団が、中国、ベトナム、北朝鮮の三カ国を訪問したときも、アメリカのベトナム侵略反対の国際統一戦線を推進する点で、共通の立場を確認しました。また、六七年、中国で毛沢東派が「文革」をとなえ、当時北京に駐在していた二人の日本共産党員に暴行をくわえたとき、両氏を迎え入れて援助したのも、朝鮮労働党でした。
ところが北朝鮮は、六七年の終わりごろから、アジアと日本の平和の見地からみて重大な動きを見せました。それは、韓国の「革命的大事変を主動的に迎える」と称して、北から南に武力介入する「南進」のくわだてを露骨にしたことでした。
六八年一月、韓国の首都ソウルに武装部隊があらわれ、大統領官邸のある青瓦台を襲撃する事件がおきましたが、これは北朝鮮の送りこんだ「武装遊撃隊」のしわざでした。
このもとで日本共産党は、六八年八〜九月、宮本顕治書記長(当時)を団長とする五人の代表団を北朝鮮に送り、「南進」のくわだての危険性と有害性を率直に指摘しました。六七〜八年ごろから顕著になった変化のなかで、北朝鮮への「迎合姿勢」どころか、金日成指導部の対外政策の誤りを正す努力をつくしたのです。この会談で、金日成は「われわれは、主動的に戦争をはじめるつもりはない」と言明し、「武装遊撃隊」活動はまもなく収束に向かいました。
七〇年代前半、北朝鮮が金日成個人崇拝を強め、日本の民主運動や国際友好・連帯運動にも押しつけてきたとき、これをきびしく批判したのも日本共産党でした。
北朝鮮が金日成を「世界革命の首領」と位置づける覇権主義的野望をあらわにしたのは、七二年のことでした。金日成への「贈り物」運動が、日本の民主団体をはじめ、国会議員や自治体首長にまで押しつけられようとしました。日本共産党は、いち早く七二年三月の論文「国際友好・連帯運動の正しい発展のために」で、相手国政府の外交政策や方針の支持運動、相手国の指導者の崇拝運動、指導者の誕生日などにかんする行事への協賛や礼賛などの日本へのもちこみを批判しました。
この立場から日本共産党は、北朝鮮が七二年七月の朝鮮統一にかんする「南北共同声明」への無条件支持を押しつけようとしたときも、きっぱり拒否しました。
これにたいし北朝鮮では、韓国に亡命した元外交官・高英煥氏の証言によると、七〇年代のはじめごろ、金日成の指示で「日本共産党との関係の清算」「日本社会党との提携への転換」という方針がだされました。
日本共産党は、一九八〇年代、北朝鮮が世界各地でくりひろげた無法行為にたいして、その事実が明らかになった段階で、国際的な道理にたってきびしく批判してきました。
●ラングーン事件(83年)
八三年十月、ビルマを公式訪問中の韓国全斗煥大統領一行が、ラングーン市内で爆弾テロにあい、韓国とビルマの高官二十一人が死亡しました。ビルマ政府は十一月四日、北朝鮮の軍人の犯行と断定。北朝鮮外務省は、ビルマ政府の発表を「ねつ造されたデッチ上げ」と非難しました。
日本共産党の立木洋国際部長(当時)は十一月五日、談話で「どの国によるものであれ、この種のテロ行為には絶対に反対」との見解を発表しました。これにたいし、在日朝鮮人総連合会傘下の日本語新聞「朝鮮時報」は、「謀略に同調する行為」だとして非難をくわえました。党は、論文「『朝鮮時報』の日本共産党非難に反論する」(「赤旗」十二月八日付)を発表して批判しました。
●日本漁船銃撃事件(84年)
八四年七月、石川県のイカ釣り漁船「第36八千代丸」が、北朝鮮が一方的に設定した「軍事境界線」内に侵入したとして、北朝鮮警備艇の銃撃をうけて拿捕(だほ)され、船長が死亡する事件がおきました。党は八月三日、「朝鮮の漁船銃撃事件は国際法上も不法行為である」と題した見解を発表。北朝鮮側に真相を明らかにし、責任ある措置を講ずるよう、きびしく要求しました。
これにたいし、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は、日本共産党の見解を「不当ないいがかり」「内政干渉」などと中傷し、日本漁船銃撃を当然視する態度をとりました。党は、論文「人道も国際法も無視する立場の自己暴露―『労働新聞』の日本共産党攻撃にたいして」(「赤旗」八月十六日付)、「『労働新聞』の乱暴な覇権主義の論法」(同九月二十七日付)で、北朝鮮側の主張を全面的に論破しました。
●大韓航空機爆破事件(87年)
八七年十一月、大韓航空機爆破事件が発生しました。翌八八年一月、韓国当局は北朝鮮の二人の工作員が実行犯だと発表。金賢姫が記者会見で、犯行を具体的に証言しました。
日本共産党の宮本議長(当時)は、一月の参院比例代表候補者会議で、事件が北朝鮮の犯行なのは明らかだとのべ、北朝鮮の蛮行をきびしく批判しました。北朝鮮の「朝鮮中央通信」は、日本共産党の態度を「帝国主義者たちにまるめこまれて」いるなどと、口をきわめて非難しました。
このように北朝鮮は一九八〇年代以降、日本共産党が北朝鮮の無法行為を国際的道理にたって批判すると、悪罵(あくば)を投げつけて攻撃するという、敵対的な態度をとりつづけてきました。そのため、八三年以降、日本共産党と朝鮮労働党との関係は断絶しました。
公明党は、この日本共産党のきぜんとした立場には、いっさい口をつぐんでいます。そして公明党は、六〇年代の両党関係だけをとりあげて「友党」関係ときめつけたうえで、北朝鮮への「迎合姿勢」などと事実をねじ曲げているのです。こんな作為的な論法は、通用するものではありません。
公明党 | 金日成体制を礼賛 |
公明党は、北朝鮮が金日成崇拝を顕著に強めた七〇年代以降、北朝鮮との関係を深めてきました。
公明党は、七二年五〜六月、北朝鮮訪問団(団長・竹入義勝委員長)を派遣し、金日成首相とも会談しています。訪朝団メンバーは、竹入氏のほか、正木良明、二見伸明、沖本泰幸、鳥居一雄の各衆院議員、黒柳明参院議員ら総勢九人。のちに公明党書記長となる市川雄一機関紙局長も参加しています(肩書はいずれも当時)。
公明新聞は当時、金日成との会談の模様を「日朝関係の正常化など 約四時間友好的に意見を交換」という見出しで報道しました(七二年六月三日付)。
公明党の北朝鮮訪問団(72年)の「成果」を報道する当時の公明新聞 |
六月二日、平壌でおこなわれた「公明党訪朝団歓迎市民集会」では、竹入委員長があいさつ。「私たちは昨夜、この国を解放し、この国を本当に廃墟の中から革命思想によって立ち上がらせた、皆さまの敬愛する金日成首相にお目にかかり、対日友好にあふれた雰囲気の中で親しく懇談することができました」とのべました。
さらに竹入氏は、「今回、共和国の各地を参観し、そこに働く人々が、主体思想をもとに、チョンリマ(千里馬)運動で前進する共和国の社会主義建設が大きな成果を収めていることに深い感銘をうけました」と、北朝鮮の「社会主義建設」を天まで持ち上げました(同六月四日付)。
公明党代表団は六月六日、北朝鮮の「朝鮮対外文化連絡協会」との「共同声明」に調印しました。「共同声明」には「公明党代表団は朝鮮人民が敬愛する金日成(キム・イルソン)首相のチュチェ思想を指針として、千里馬(チョンリマ)の勢いで駆け社会主義建設で大きな進歩をとげたことに対し祝賀した」と、はっきり書かれています(同六月七日付)。
こうして公明党は、金日成個人崇拝が極端に強まった北朝鮮の体制を絶賛したのです。これこそ北朝鮮への「迎合姿勢」そのものです。
一九九〇年代以降も、公明党は、北朝鮮、朝鮮労働党との友好関係をつづけてきました。
最近では二〇〇〇年八月、公明党有志議員による日朝友好訪問団(団長・東順治衆院議員)が北朝鮮を訪問。参加した北原守福岡県議は、手記に「公明党と北朝鮮との新しい友好関係を築きゆく、意義ある旅となった」と書いています(同二〇〇〇年八月十八日付)。
また、北原手記は、「東団長が『近い将来、公明党の公式訪問団を派遣したい』とする神崎武法代表の伝言を伝えた」こと、北朝鮮側が「公式訪問団には必ずお会いしたい」と反応があったことも伝えています(同前)。こういう関係も無視できません。
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